戦うことを考えるより、戦わないことを考える。
戦わないためには、どう戦うかをとらえて、戦うことがあるのだから、戦わないためにはどう戦うかを、抑止論としてみる。
戦争を不戦で考えることは可能か、平和国家を平和憲法の下で実現したかのように、不戦の誓いだけをもとにして戦争をすることがなかったのは、戦争が何かを考えずしてきたようなものだから、いわば奇跡に近いことであった。
70年近く、大戦と対戦がなく過ごしてきた間を、戦わずして戦うことをしてきたことになるのだろう、と一人一人が思うことがある。
わたしたちは本当に戦わないことをして戦ってきていると言えるのか、そうしているのか、戦うことがどういうことであるかを知れば、戦わないというだけでは済まされない。
永世中立が実現していたとでもいうのだろうか。
知る人が知る、戦争をその事実としてどう見てきたというのだろう。
イラクに派兵された兵士が見てきたのは戦争である。後方支援に国防力を費やしただけでなく、そこには戦争の現実があった。日本兵士はおおく、その現実を経験して死に至ったのである。表向きには銃弾に倒れたものはないが、うちなる傷を負ったものがいたはずである。
さらには戦争が招く負傷を経験して訴える。日本に一人の兵士がいる
兵士の命を不戦論議にすることはできない。傷ついたものを、自らの命を絶ったものを知らなければならない。
戦わずして戦うことは犠牲だけがのこる。
サティヤグラハ satygraha である。これを可能とするには、戦わずして戦うことを、戦うことの同列におかなければ、その戦いに勝ちはない、価値はない。
思い至るのは、この思想である。辞書によれば、
《真理の主張の意》マハトマ=ガンジーが唱えた非暴力抵抗運動のこと。サティャグラハ
そして次は、引用の引用をしてみよう。
>非暴力が最高の戦略と主張していた。ガンジーは単に、非暴力は道徳的なだけではなく、効果的な戦略で、実力を発揮する能力があり、武装する敵を国から追い出すくらいの勢力になる、とも議論していたのだ。
サティヤグラハ(サンスクリット語で真理の把握。非暴力不服従運動の中心概念)は無活動という意味なのではなく、一種の活動であり、戦わないという意味ではなく、自国を攻撃や抑圧から守る戦略なのである。そして結果として、サティヤグラハは大英帝国をインドから追い出すことに成功した。
>ガンジーは言った。「どんなことでも臆病よりましだ。なぜなら、臆病は "二重蒸留" 暴力だからだ」(全集九一巻 三○二ページ)
> <53ページ 第二章 幻の憲法論の全貌 ガンジーとマキアヴェリ より>
ガンジーは「インド」という国、または民族の創立者だと思われているが、国家の創立者、あるいはその「君主」になることは、彼の本質に反することだ。前述した二○世紀の国づくりをしたリーダーたちのうち、国家首相にならなかったのはガンジーだけだ。イギリスからインドへの権力委譲が近づいてくると、イギリスにとっては、ガンジーがもっとも重要な交渉相手でありながら、ガンジー自身は生まれつつある新政府から離れていった。
ガンジーは新政府のどのポストにもつかなかったし、憲法作成委員会にも参加しなかった。
独立は近づいていたにもかかわらず。彼は絶望感をよく表現するようになっていた。
>インドをイギリスが取ったのではなくて、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力で居られたのではなく、私たちがイギリス人たちに居させたのです。──(中略)── イギリス人たちには王国を設ける気持ちはありませんでした。その会社『東インド会社』の人たちを助けたのは誰でしょうか? 会社の人たちの金を見て誘惑されたのは誰でしょうか? 会社の商品を誰が買っていましたか? 歴史は証明しています。私たちこそがそれらすべてをしていました。──(中略)── 私たちがイギリス人たちにインドを与えたように、イギリス人たちのある者は、インドを剣で手に入れたといっていますし、剣で支配できるともいっています。この二つのことは誤りです。インドを支配するのに剣は役立ちません。私たちこそがイギリス人たちを(インドに)引き止めているのです。(第七章)
><62ページ 第二章 幻の憲法論の全貌 非暴力 より>
サティヤグラヒー(非暴力の運動家)が相手を殺す「権利」を放棄することによって、相手の人を殺す「権利」も奪われることになる。つまり、相手の「正戦」の権利、「正当な暴力」の権利は、こちら側も同じルールによって動いている、という大前提の上に立っている。だから、こちら側でそのルールを認めず、人を殺す権利を放棄し。事実として殺そうとしていない、ということになると、相手の行為は「正戦」ではなく「犯罪行為」に変身する。これは一般兵士に対しても司令部に対しても激しいプレッシャーになり、士気をうんと落とすことにもなりうる。もちろん、インドの歴史でわかるように、サティヤグラハを使えば軍隊は絶対に暴力を使わない、というような保障はまったくない。サティヤグラヒーが殴られたり、撃たれたり、殺されたりしたこともあった。しかしその運動は、デモのような「反対意見を表現する」ものでも、「署名運動」のような「政治に訴える」運動でもなかった。非協力+非暴力運動は、まぎれもない実力行動だった。
以上は、次による。
ガンジーの危険な平和憲法案 C.ダグラス・ラミス 著 - うちこの ...
d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20100821
2010/08/21 - 非暴力不服従運動の中心概念)は無活動という意味なのではなく、一種の活動であり、戦わないという意味ではなく、自国を攻撃や抑圧から守る戦略なのである。そして結果として、サティヤグラハは大英帝国をインドから追い出すことに成功 ..
戦わないためには、どう戦うかをとらえて、戦うことがあるのだから、戦わないためにはどう戦うかを、抑止論としてみる。
戦争を不戦で考えることは可能か、平和国家を平和憲法の下で実現したかのように、不戦の誓いだけをもとにして戦争をすることがなかったのは、戦争が何かを考えずしてきたようなものだから、いわば奇跡に近いことであった。
70年近く、大戦と対戦がなく過ごしてきた間を、戦わずして戦うことをしてきたことになるのだろう、と一人一人が思うことがある。
わたしたちは本当に戦わないことをして戦ってきていると言えるのか、そうしているのか、戦うことがどういうことであるかを知れば、戦わないというだけでは済まされない。
永世中立が実現していたとでもいうのだろうか。
知る人が知る、戦争をその事実としてどう見てきたというのだろう。
イラクに派兵された兵士が見てきたのは戦争である。後方支援に国防力を費やしただけでなく、そこには戦争の現実があった。日本兵士はおおく、その現実を経験して死に至ったのである。表向きには銃弾に倒れたものはないが、うちなる傷を負ったものがいたはずである。
さらには戦争が招く負傷を経験して訴える。日本に一人の兵士がいる
兵士の命を不戦論議にすることはできない。傷ついたものを、自らの命を絶ったものを知らなければならない。
戦わずして戦うことは犠牲だけがのこる。
サティヤグラハ satygraha である。これを可能とするには、戦わずして戦うことを、戦うことの同列におかなければ、その戦いに勝ちはない、価値はない。
思い至るのは、この思想である。辞書によれば、
《真理の主張の意》マハトマ=ガンジーが唱えた非暴力抵抗運動のこと。サティャグラハ
そして次は、引用の引用をしてみよう。
>非暴力が最高の戦略と主張していた。ガンジーは単に、非暴力は道徳的なだけではなく、効果的な戦略で、実力を発揮する能力があり、武装する敵を国から追い出すくらいの勢力になる、とも議論していたのだ。
サティヤグラハ(サンスクリット語で真理の把握。非暴力不服従運動の中心概念)は無活動という意味なのではなく、一種の活動であり、戦わないという意味ではなく、自国を攻撃や抑圧から守る戦略なのである。そして結果として、サティヤグラハは大英帝国をインドから追い出すことに成功した。
>ガンジーは言った。「どんなことでも臆病よりましだ。なぜなら、臆病は "二重蒸留" 暴力だからだ」(全集九一巻 三○二ページ)
> <53ページ 第二章 幻の憲法論の全貌 ガンジーとマキアヴェリ より>
ガンジーは「インド」という国、または民族の創立者だと思われているが、国家の創立者、あるいはその「君主」になることは、彼の本質に反することだ。前述した二○世紀の国づくりをしたリーダーたちのうち、国家首相にならなかったのはガンジーだけだ。イギリスからインドへの権力委譲が近づいてくると、イギリスにとっては、ガンジーがもっとも重要な交渉相手でありながら、ガンジー自身は生まれつつある新政府から離れていった。
ガンジーは新政府のどのポストにもつかなかったし、憲法作成委員会にも参加しなかった。
独立は近づいていたにもかかわらず。彼は絶望感をよく表現するようになっていた。
>インドをイギリスが取ったのではなくて、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力で居られたのではなく、私たちがイギリス人たちに居させたのです。──(中略)── イギリス人たちには王国を設ける気持ちはありませんでした。その会社『東インド会社』の人たちを助けたのは誰でしょうか? 会社の人たちの金を見て誘惑されたのは誰でしょうか? 会社の商品を誰が買っていましたか? 歴史は証明しています。私たちこそがそれらすべてをしていました。──(中略)── 私たちがイギリス人たちにインドを与えたように、イギリス人たちのある者は、インドを剣で手に入れたといっていますし、剣で支配できるともいっています。この二つのことは誤りです。インドを支配するのに剣は役立ちません。私たちこそがイギリス人たちを(インドに)引き止めているのです。(第七章)
><62ページ 第二章 幻の憲法論の全貌 非暴力 より>
サティヤグラヒー(非暴力の運動家)が相手を殺す「権利」を放棄することによって、相手の人を殺す「権利」も奪われることになる。つまり、相手の「正戦」の権利、「正当な暴力」の権利は、こちら側も同じルールによって動いている、という大前提の上に立っている。だから、こちら側でそのルールを認めず、人を殺す権利を放棄し。事実として殺そうとしていない、ということになると、相手の行為は「正戦」ではなく「犯罪行為」に変身する。これは一般兵士に対しても司令部に対しても激しいプレッシャーになり、士気をうんと落とすことにもなりうる。もちろん、インドの歴史でわかるように、サティヤグラハを使えば軍隊は絶対に暴力を使わない、というような保障はまったくない。サティヤグラヒーが殴られたり、撃たれたり、殺されたりしたこともあった。しかしその運動は、デモのような「反対意見を表現する」ものでも、「署名運動」のような「政治に訴える」運動でもなかった。非協力+非暴力運動は、まぎれもない実力行動だった。
以上は、次による。
ガンジーの危険な平和憲法案 C.ダグラス・ラミス 著 - うちこの ...
d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20100821
2010/08/21 - 非暴力不服従運動の中心概念)は無活動という意味なのではなく、一種の活動であり、戦わないという意味ではなく、自国を攻撃や抑圧から守る戦略なのである。そして結果として、サティヤグラハは大英帝国をインドから追い出すことに成功 ..