現代日本語文法文章論 タイトルは、 海辺の小屋 漁師の歴史 とある。副題に、 新潟県内104カ所を調査 変わりゆく郷土の姿報告書に とある。エッセイである。日本経済新聞の文化面、20150205付けである。執筆者は、 三井田忠明 氏である。なお、有料会員サイトであり、著作の全文をこのように言語分析に資料としているので、そのことをお断りするとともに、ここにお礼を申したい。
冒頭の文は、次である。
> 漁師が建てた海辺の小屋に興味を覚えたのは昭和の終わり、駆け出しの博物館学芸員だったころのことだ。
末尾の文は、次である。
>だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。
書き出しの文段は、次のようである。
> 漁師が建てた海辺の小屋に興味を覚えたのは昭和の終わり、駆け出しの博物館学芸員だったころのことだ。生まれ育った新潟県柏崎市の海岸に2軒、かやぶき屋根の小屋が並んでいた。趣深く、時々眺めにいった。
末尾の文段は、次のようである。
> 調査した海辺の小屋がその後どうなっているか、今も折々にチェックしている。やがてほとんどが姿を消すだろう。だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。(みいだ・ただあき=元柏崎市立博物館館長)
段落は、見出しのもと、次のようである。
> 海岸線総延長635キロ
新潟県は佐渡、粟島も含めると海岸線の総延長が635キロメートルにも達する。その長い道のりを車で走りながら、小屋を探して目を凝らすのである。見つかれば写真を撮り、巻き尺で採寸して、持ち主に話を聞く。
> 漁船の変化が影響
1950年代以降、漁港が計画的に整備される中で、浜辺の風景は大きく変わっていった。小屋は徐々に姿を消し、壊されずとも廃虚になった。漁船が木造から丈夫な繊維強化プラスチック(FRP)製に変わり、むきだしで係留しておけるようになったことも、小屋の消滅に拍車をかけた。
> 身近にある奥深さ
博物館に入ったころの私は、仕事の意義をなかなか見いだせなかった。そんなとき、出張先の東京の書店で民俗学者の野本寛一先生の「軒端の民俗学」という本に出合った。この本は、家の軒先で執り行われる習俗を読み解く内容で、身近な場所に奥深い世界がいくらでも潜んでいると教えられた。それに触発され、ずっと気になっていた海辺の小屋を自分のテーマに選んだのだった。
調査した海辺の小屋がその後どうなっているか、今も折々にチェックしている。やがてほとんどが姿を消すだろう。だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。(みいだ・ただあき=元柏崎市立博物館館長)
春秋
2015/2/5付
日本経済新聞
悪逆無道。鬼畜の所業。誰もがこういう強い言葉を思い浮かべているだろう。それでも非難しきれぬ狂気というほかない。かの「イスラム国」が、拘束していたヨルダン人パイロット殺害の一部始終をインターネット上で公開した。こんどはあろうことか、焼殺である。
巧みな編集で20分以上に及ぶ映像は人間の心に憎悪と恐怖を募らせ、世界を報復の連鎖に引きずり込むプロパガンダだ。人々は映し出された光景に打ちのめされ、それを乗りこえようとさらに激しい言説を繰り出すことになる。言葉では足りず、行動をたのむことになる。これこそがテロ組織のねらい定めたところだろう。
「相手が用意した劇場から出なければいけない」と山田英雄・元警察庁長官が本紙で語っている。怒りを持つのは大切なことだ。テロに屈してはならない。けれど狂信者が勝手にこしらえた芝居小屋で高ぶるばかりでは連中の思うつぼではないか。ネット空間には勇ましい極論があふれているが、いま必要なのは冷静さだ。
あの映像を共有するな――。思慮なきネットの世界にも、後藤健二さん殺害の動画が拡散されるのを防ごうとする動きがある。相当な宣伝効果を織り込んだに違いない今回の一編も、決して共有することはない。その仕掛けに乗るべきではない。悪逆無道。鬼畜の所業。投げつけたい言葉を胸に、しばし深呼吸をしてみる。
冒頭の文は、次である。
> 漁師が建てた海辺の小屋に興味を覚えたのは昭和の終わり、駆け出しの博物館学芸員だったころのことだ。
末尾の文は、次である。
>だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。
書き出しの文段は、次のようである。
> 漁師が建てた海辺の小屋に興味を覚えたのは昭和の終わり、駆け出しの博物館学芸員だったころのことだ。生まれ育った新潟県柏崎市の海岸に2軒、かやぶき屋根の小屋が並んでいた。趣深く、時々眺めにいった。
末尾の文段は、次のようである。
> 調査した海辺の小屋がその後どうなっているか、今も折々にチェックしている。やがてほとんどが姿を消すだろう。だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。(みいだ・ただあき=元柏崎市立博物館館長)
段落は、見出しのもと、次のようである。
> 海岸線総延長635キロ
新潟県は佐渡、粟島も含めると海岸線の総延長が635キロメートルにも達する。その長い道のりを車で走りながら、小屋を探して目を凝らすのである。見つかれば写真を撮り、巻き尺で採寸して、持ち主に話を聞く。
> 漁船の変化が影響
1950年代以降、漁港が計画的に整備される中で、浜辺の風景は大きく変わっていった。小屋は徐々に姿を消し、壊されずとも廃虚になった。漁船が木造から丈夫な繊維強化プラスチック(FRP)製に変わり、むきだしで係留しておけるようになったことも、小屋の消滅に拍車をかけた。
> 身近にある奥深さ
博物館に入ったころの私は、仕事の意義をなかなか見いだせなかった。そんなとき、出張先の東京の書店で民俗学者の野本寛一先生の「軒端の民俗学」という本に出合った。この本は、家の軒先で執り行われる習俗を読み解く内容で、身近な場所に奥深い世界がいくらでも潜んでいると教えられた。それに触発され、ずっと気になっていた海辺の小屋を自分のテーマに選んだのだった。
調査した海辺の小屋がその後どうなっているか、今も折々にチェックしている。やがてほとんどが姿を消すだろう。だが「かつてこういうものがあった」ということを後世に伝えられれば、地方の元学芸員としてちょっとは胸を張っていいのではないかと思っている。(みいだ・ただあき=元柏崎市立博物館館長)
春秋
2015/2/5付
日本経済新聞
悪逆無道。鬼畜の所業。誰もがこういう強い言葉を思い浮かべているだろう。それでも非難しきれぬ狂気というほかない。かの「イスラム国」が、拘束していたヨルダン人パイロット殺害の一部始終をインターネット上で公開した。こんどはあろうことか、焼殺である。
巧みな編集で20分以上に及ぶ映像は人間の心に憎悪と恐怖を募らせ、世界を報復の連鎖に引きずり込むプロパガンダだ。人々は映し出された光景に打ちのめされ、それを乗りこえようとさらに激しい言説を繰り出すことになる。言葉では足りず、行動をたのむことになる。これこそがテロ組織のねらい定めたところだろう。
「相手が用意した劇場から出なければいけない」と山田英雄・元警察庁長官が本紙で語っている。怒りを持つのは大切なことだ。テロに屈してはならない。けれど狂信者が勝手にこしらえた芝居小屋で高ぶるばかりでは連中の思うつぼではないか。ネット空間には勇ましい極論があふれているが、いま必要なのは冷静さだ。
あの映像を共有するな――。思慮なきネットの世界にも、後藤健二さん殺害の動画が拡散されるのを防ごうとする動きがある。相当な宣伝効果を織り込んだに違いない今回の一編も、決して共有することはない。その仕掛けに乗るべきではない。悪逆無道。鬼畜の所業。投げつけたい言葉を胸に、しばし深呼吸をしてみる。