日本文化の雑種性と、日本文化の特殊性と、並べて考えてみると、それぞれの議論は視点として、加藤周一によるフランス文化との発想にあるもの、青木保による日本文化論のアイデンティティーを日本民族、日本人とは何かを問いかけるものとで相違を見せる。より詳しい議論をまた展開するものではないが、特異であること、特殊であることの、文化の成り立ち、日本人の社会性、などなどがその利点を浮きだたせる。わたとしたちが自らを知ろうとする、その前提には、この議論に見られる文化の伝播がどうであったか、大陸と海洋をはさんでの風土に、部族が統合される時間の経過にあらわれる精神の葛藤が象徴するものとして、家族国家観にある在り方が、自然気候の中にあって、大きくその特異、特殊であることを自覚させる。雑種は日本文化の断続的でありながら非連続とならない連続性に特徴づけられる。そこには言語芸術が代表しうるし、衣食住のどれにもその様相がある。特殊性とは、今も続く象徴性の天皇をいただく、それを抱く国民国家であることであって、みやことたみびとの対比構図は変わるものではない。
日本人の特異性
日本人の特異性を検索したら、ヒットして出てきたのが、興味深かった。とくに異なるというのは、異なる、この語の意味内容が異能であったり、特殊の、ことなる、つまりは、殊であったりする。異......
日本人の特異性を検索したら、ヒットして出てきたのが、興味深かった。とくに異なるというのは、異なる、この語の意味内容が異能であったり、特殊の、ことなる、つまりは、殊であったりする。異邦人と用いる語でもあるから、日本人の特異性を見出すのは、わたしたち自身よりも、とつ国の人たちである。それはまた日本人の持つ異境へのあこがれの結果である。自分自身を異なる人と見るわけはないので、むしろ、異なるものへの、優れたもの、個性的であるもの、秀でたものへの見方となって、それを持つことが異なるのである。いわく、> 私たちは自覚もありませんが、世界標準からすれば『日本人は、めっちゃ特殊』なのです。