安徽省合肥市、ここはどこかと、安徽新華学院をたずねて、講義をした。学生は3年のみなさん。話題は、時代と世代、元号についての分かりやすいところをと思って、学術庁にのぞんだら、雰囲気があって、もとの材料でパソを用いて話した。聞けば、資料は転送されていたから、あとの祭りで、どうにでもなるだろうか。南京から高速で南駅について、市内を車で走った。20日の宵のことであって、歓迎宴を受けた。学院副院長、外語学術委員長、日本語科の先生二人、何先生と、わたしと、6人でよろしく白酒の宴会となった。パイチューは次の日に持ち越さないのだが、さすが、一口だけでお付きあいと決め込んだ。酒精度は42℃らしく、ひとびんを空けてしまったから、推してしるべしである。ウイスキーのように、刺激がないので飲みやすい、ただ、アルコールは強いから、疲労してきた頭痛に利いたらしく、薬となってよかった。明けて21日、午前中は休憩としたが、例によって、ホテルの周辺を東西南北に歩く。禅寺があった。その背景には、山があって、人とき、観光を楽しんだ。20元を出してチケットを買おうとしたら、なんかだめだというから、どうしてかなと、わからないのでよく聞いていると、どうも65歳以上には免費ということこたで、だから売らないということのようで、料金案内にそう書いてあるから、無料なのでる。
この辺りは古いところであはあるけれど、区画に整理した道路が走り、安徽新華学院はその校地を郊外の広いところに構えているのだろう。通用門から南門、正門までを歩くと10分以上はかかるから、その広さである。合肥は省都として古くから栄えているところである。そのはずれで、新街をわずかに観たようである。蜀山区になる。テレビドラマで、包公さんを楽しんだことを思い出す。
ウイキペディアより
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包拯、包青天、北宋仁宗期の著名な大臣、清廉をもって名を残した。京劇などで「鉄面無私の包公」として登場する。市内に墓(包孝粛公墓園)がある。
合肥市 - Wikipedia
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合肥市(ごうひし、がっぴし、中: 合肥市、 拼音: Héféi Shì)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連 ...
市区人口(2014): 531.8 万人 総人口(2014): 769.6 万人
市区: 458 km² 電話番号: 0551
>合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した。
後漢末期に曹操により派遣された揚州刺史の劉馥が整備し、曹操と孫権の係争地となる。208年、孫権は10万の兵を率いて百日あまり合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。215年、曹操配下の張遼が李典ともに精鋭兵800人を率いて合肥を包囲した呉軍を奇襲、打撃を与えて気勢を削ぎ、その後は7千ほどの兵力で篭城し、呉の10万の大軍を相手に守りきった。そして撤退中の呉軍に追撃をかけ、孫権を徹底的に追い詰めた(合肥の戦い)。その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、恐れられたことから「遼来遼来」の言葉を生んだ。
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、呉からの攻撃も止むことはなかった。230年代初頭に魏の満寵が老朽化した合肥城の北西側に「合肥新城」を築城する。234年、呉の孫権が同城を攻撃してきた際には、魏の曹叡(明帝)が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている)。253年には呉の諸葛恪が攻撃するが、籠城の末にこれを撃退した。
その後隋代には合肥県に廬州府が設置され、明清時代まで続いた。このため廬州の別称でも知られる。
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安徽省中央、長江と淮河の間に位置し、巣湖に臨む。南に淝河を通じて長江から海に出ることができる。省都として行政施設が多数置かれているほか、石油関連のオフィスが目立つ。大規模な工場は少ないが主要大学があることも関係して技術研究開発施設には重点が置かれている。
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国の直轄管理である中国科学技術大学、合肥工業大学、安徽大学を擁し、北京に次ぐ一大科学技術教育拠点である。