―承前ー
次に、元号について考えてみます。すでによく知っていること、知識体験でなく、もはや中国では使わなくなったことになりますから、時代に名をつけ日本での元号としてきた248個の年号です。歴史に記録してきた一覧に、248の名称を中国語発音でご覧ください。令和は2019年4月、改元するひと月前に公表、いろんな角度でメディアが報道してきました。
なかでも新聞記事の特集をもって、わかりよくイラストにするものが目立ちました。わたしが読む新聞に「イチから分かる元号 最長は? 最多漢字は?」というのがあって、ダイジェストします。2019/3/30 6:00 (2019/4/1 15:34更新) 日本経済新聞 電子版 より引用。
>ちなみに歴代の元号の中で最も長く使われたのが「昭和」の62年。次に「明治」(43年9カ月)、室町時代の「応永」(33年10カ月)と続き、4番目に「平成」(30年3カ月)がランクインする。一方、最も短いのが「暦仁(りゃくじん)」の2カ月と14日。
>「日本年号史大事典」などによれば、「大化」から「令和」まで248の年号に使用されている漢字は合計73。最も多いのが「永」(29回)で、よりよき時代が永く続くようにとの願いが込められている。その次に多いのが「元」と「天」の27回で、「治」(21回)、「応」「和」(20回)と続く。「令」は初出。
>日中の元号を比較すると、中国でもツートップは日本と同じく「元」(46回)と「永」(34回)。ただ王朝交代を重ねたからか、「始」「建」「興」といった勇ましい文字が目立
つのに対し、日本では中国で使われたことのない「寛」「保」「亀」といった穏やかな文字が多い。奈良時代に続いた「天平感宝」(749年)など4文字の5元号を除けば、全て漢字2文字で、重複が無い。
>「平成」までの出典は77種で全て漢籍。「令和」は初めて和書である万葉集を出典とした。大部分は唐以前の古典で、最多は「書経」の36回だ。次いで「易経」27回、「文選」25回、「後漢書」24回、「漢書」21回と続き、「四書五経」と呼ばれる儒教の経書や古代中国の歴史書が多い。
>過去に選に漏れても、後世に最善案として採用されるというケースも珍しくない。「平成」は幕末の「慶応」改元の際の候補の一つだった
>明治期には、旧皇室典範により「一世一元」の原則が明文化。さらに登極令によって、天皇の即位後すぐに改元するよう規定された。だが敗戦でGHQ(連合国軍総司令部)の統制下に置かれると、旧皇室典範や登極令は廃止され、新皇室典範から元号に関する規定が消失。元号は法的根拠を失った。
「昭和」が「明治」を超えて最長の年号となった昭和45年(1970年)ごろ、元号が「昭和」限りで消滅するのではないかとの危機感から、元号の法制化を求める動きが盛り上がる。その結果、79年6月に元号法が成立。「元号は、政令で定める」「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」という、わずか2項から成る短い法律だが、「一世一元」制の継続が明確に根拠付けられた。
引用を終わります。ここでまとめてみます。元号が長く使われた年数について、次です。
「昭和」 62年 「明治」 43年9カ月 「応永」 33年10カ月-室町時代
「平成」 30年3カ月
近代になる前に「応永」が長い年号です。時代の説明を、ちょっと、見ますと、「明徳の後、正長の前。1394年から1428年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。」となります。「室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。」 <ウィキペディア>
次のような逸話が、紹介されていますので、元号とともに記憶されることになります。まず、出典は、『唐会要』巻67の「久応称之、永有天下」です。
逸話 時の将軍足利義満は若い頃から明へ深く憧れており、「明徳」改元の議の際に明の太祖洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。そこで、東坊城秀長は「洪徳」、「洪業」、「洪化」の3案を義満に提示したところ、義満は「洪徳」を選定した。しかし、「洪徳」は以下の理由で公家達が反発したため実現せず、結局「応永」に決定した。
・ 「洪」の字は洪水につながる。
・ これまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号(天治、大治、永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続「元」のつく元号(元応、元亨、元徳、元弘、延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である。
ちなみに、この時候補として寛永、宝暦も提案されていた。
応永が35年という長さになったのは以下の説がある。
・ この改元で義満は機嫌を損ねて、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。
義満の子の義持が応永に愛着を持っていたので、1408年(応永15年:義満死去に伴う)と1413年(応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止した。
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>
https://ja.wikipedia.org/wiki/応永
使われた文字 「大化」から「令和」まで、合計73漢字(「日本年号史大事典」による)
「永」29回 「元」と「天」27回 「治」21回 「応」「和」(20回)
「令」は初出
日中の元号、文字の比較
中国 「元」46回 「永」34回 王朝交代をした、「始」「建」「興」が多い
日本 日本では中国では見ない「寛」「保」「亀」が多い 天平感宝など、4文字の元号が5つ、ほかは漢字2文字で、重複が無い。
出典 77種 これまでは、すべて漢籍
唐以前の古典 「書経」36回 「易経」27回 「文選」25回
「後漢書」24回 「漢書」21回 「四書五経」と呼ばれる儒教の経書や古代中国の歴史書
書経 しょきょう Shu-jing:中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。 『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。
易経 えききょう Yi-jing:五経の一つ。占いの理論と方法を説く書。『周易』とも,単に『易』ともいう。五経の筆頭に置かれる儒教の経典。《周易》,《易》ともいう。本文(経(けい))は64種類の象徴的符号(卦(か))と,そのおのおのに付された短い占断の言葉から成っており,本文の解説(伝(でん))は彖(たん)伝をはじめ10編があるので,これを十翼(翼はたすける意)という。《易経》はこの経と伝との総称である。
文選 もんぜん Wen-xuan:中国の詩賦のアンソロジー。六朝,梁の昭明太子蕭統(しょうとう)〔501-531〕の撰。30巻。古代の周から梁までの詩人,文章家約130人の作品800編を文体別,時代別に並べ,37の文体門に分類した。美文の模範として後世広く愛誦され,特に隋〜唐代に盛行。唐の李善の注,呂延祚(りょえんそ)の集めた五臣注,両者を合わせた六臣(りくしん)注などがある。日本では聖徳太子の〈憲法十七条〉に,さらに平安・中世文学に影響した。 <以上は、コトバンク>
元号については、はじめての日本の書による典籍で、万葉集の関心を呼び起こしました。西暦の年号と元号を使うというのは近代からのことです。それまでは暦を年回りに、十干十二支で示していました。2019年なら、つちのとい、干支の一つ、第36番目の組み合わせになります。干支は60年周期ですから、己亥の年は1959年、昭和34年に続きます。
き‐がい 【己亥】の用例です。太平記は1318年、文保2年から 1368年、貞治6年頃までの約50年間を書く軍記物語です。南朝は正平14年、北朝は 延文4年のこと。この時代の、つちのとい、己亥は1359年です。
*太平記〔14C後〕九・越後守仲時以下於番馬自害事「彼(かの)己亥(キガイ)の年、五千の貂錦(てうきん)胡塵(こぢん)に亡び」 <日本国語大辞典>
元号、「げん」と読み、「ガンゴー」とは言わない。そして「元」の文字に語構成が3つあって、あたま、主要な、「元首」です。第一の、はじめの、「元日、元旦、元年、元祖」、そして、訓読みにした、もとの、となることばです。「元本、元素」などと用います。中国での王朝の名前に「元王朝」、貨幣には「園」を「元」と用います。
① と。根本。「元金」「元素」 [類]原
② はじめ。はじまり。「元祖」「元日」
③ たま。くび。「元服」
④ さ。つかさ。第一の人。首長。「元勲」「元首」
⑤ 号。「元号」「改元」
⑥ 国の王朝名。「元寇(ゲンコウ)」
⑦ 国の貨幣単位。 <元の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア>
[音]ゲン(漢) ガン(グヮン)(呉) [訓]もと はじめ
[学習漢字]2年
〈ゲン〉1 物事のもと。根本。「元気・元素/還元・根元・復元」
2 はじめ。「元始」
3 頭部。「元服/黎元 (れいげん) 」
4 第一の人。かしら。「元首・元帥・元老」
5 大きい。「元勲」
6 年号。「元号/改元・紀元」
7 中国の王朝の名。「元寇」
〈ガン〉 1 もと。「元金・元利」 2 はじめ。「元日・元祖・元年・元来」
〈もと〉「元手・元値/家元・地元・根元・身元」
[名のり]あさ・ちか・つかさ・なが・はじむ・はる・まさ・ゆき・よし
<元の解説 - 小学館 大辞泉>
https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/元
それで、「元号」はどんな意味かと聞きます。
中国、日本などで、ある時点から起算して年数を計算するための特定の称号。
<日本国語大辞典>
元号 中国語訳 年号 <Weblio中日対訳辞書>
元号の概念の説明 その天皇在位の象徴として、年につける名
元号(げんごう)は、日本の年代に付けられる称号。 <Wikipedia>
元号は、日本語の意味にすると、元は、はじめ、号は、名付ける、元年という、ガンの言い方と同じ発音ではないですから、ことばが伝わった時代地域の発音となります。元号を変える、元号が変わることを改元と言いますが、その理由を4つ挙げています。
【改元】[名](スル)年号(元号)を改めること。改号。「昭和を改元して平成となった」
[補説] 行われる理由により、
代始(だいはじめ)改元(天皇の代替わりに行う)、
祥瑞(しょうずい)改元(珍しい自然現象を天意とみて行う)、
災異改元(災害などに際して行う)、
革命改元(讖緯(しんい)説に基づき辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)の年に行う)
の四つに分けられる。 <デジタル大辞泉の解説>
平成から令和の改元は天王の退位によるものでした。これまで、現行の法律には元号のとりきめがなくなったので、元号法ができました。第2次大戦後、元号は法的根拠をもたない慣習として用いられていました。法的根拠を与えるために法律が制定され、昭和54年、1979年にできました。最も条文が短い法律です。次の2項からなります。
第1項:元号は、政令で定める。
第2項:元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める(一世一元の制)。
さて、元号は名づけであると、それでは、どのようにその名前を決めていたでしょうか。わたしの時代は、1946年に生まれたので昭和ですが、その次に平成、いま令和と3つの時代で生きていることになります。そして、述べてきた元号の取り決めを歴史に説明するところをみます。近代になってからの年号、明治、大正、昭和については、次のようです。
明治:出典は『易経』の「聖南面而聴天下、嚮明而治」、聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む(聖人が南を向いて政治を行えば、天下は明るい方向に向かって治まる)
『孔子家語』の「長聡明、治五気」、(成長してからは聡明で、万物の根本である木火土金水の五つの気を治めた)
大正:出典は『易経』の「大亨以正、天之道也」、大亨は以って正天の道なり(すべてとどこおりなく順調に運び、正しさを得る) 意味は「天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われる」
昭和:出典は『書経』堯典の「百姓昭明、協和萬邦」、百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す(「国民の平和と世界の共存共栄を願う」
続いて、平成について、新しく元号を制定する法律ができて、次のような経過がありました。
新元号制定は、元号法(54年成立)に基づき、「元号選定手続き」(同年閣議了承)に沿って進められた。首相の委嘱を受け国文学、中国文学、歴史などの学者が提出した候補名を小渕官房長官と味村法制局長官が整理検討して竹下首相に報告。さらに学識経験者ら国民代表や衆参両院の正副議長らの意見を聞いたうえ、臨時閣議で決めた。選定は、
1.国民の理想としてふさわしい意味を持つ
2.漢字二字
3.書きやすい
4.読みやすい
5.外国を含め過去に元号やおくり名として使われていない
6.俗用されていない
の六つの基準で行われた。「へいせい」は史記および書経の「内平かに外成る(史記)地平かに天成る(書経)」からとられた。内外、天地とも平和が達成されるとの意味。
<1989年 昭和64年1月7日産経新聞>
平成:出典は『史記』「内平かに外成る」内外、天地とも平和が達成される。
『書経』「地平かに天成る」
元号令和の時代となり、2019年4月に、新しく制定されて国民に知らされました。令和元年は5月1日からです。令和のこと、元号に出典があること、その決め方をお話してきました。ニュースなどで出来事として情報を得たことと思います。長く元号を記録にとどめたこと、その議論をする経緯があります。年号勘文、まず、かんもん、にふれておきます。
勘文 かんもん
「かもん」「かんがえぶみ」とも読む。平安時代,朝廷の諮問に対して前例の故実などを調査し,上申した意見文書。おもに太政官の外記 (げき) ,史 (ふひと) ,明法 (みょうぼう) 博士,陰陽 (おんみょう) 博士などが行なった。
<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説>
かんもん【勘文】
先例,故実,吉凶あるいは事を行う場合の日時の選定などについて,事実および意見を上申する文書。〈かもん〉ともいう。〈勘〉はかんがえるの意。勘状,勘注あるいは注進状ともいい,先例を上申したものは勘例ともいう。勘文の内容はきわめて多種類にわたるが,おおむね朝廷の諸事は太政官の外記と史が,日時・方角については陰陽道,日・月食の時刻は暦・算・宿曜道の諸家が,改元の年号は儒家が,犯罪人の量刑については法家が勘申した。 <世界大百科事典 第2版の解説>
以上は、コトバンクより
それでは、元号一覧とその出典を示します。これまでは、元号の出典が漢籍によるということでした。それを歴史に正しく伝えて、その記録としてとどめられてきました。その決め方は、現代と違って、その時代にあることですから、次のように説明されています。元号の文字の典拠が中国の古典であることです。また、年号勘文についての文書を示します。
日本では武家政権の時代でも改元の権限は朝廷に保留され,天皇が決裁し,詔書をもって公布された。天皇践祚ののち,ただちに元号を改めることは旧皇室典範などで規定されていたが,第2次世界大戦後,法的根拠を失い,慣例的に「昭和」が使用された。1979年元号を政令で定めるとした元号法(昭和54年法律43号)が制定され,これに基づき 1989年に「平成」,2019年に「令和」の元号が定められた。元号の文字の典拠は長らく儒教の経典(→四書,六経)や史書,文集などの中国の古典であったが,令和は日本の古典『万葉集』が典拠であるとされた。
<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説>
平安時代中期以降の決め方について紹介すると、朝廷内には文章博士家(もんじょうはかせけ)と呼ばれる家がいくつかありました。文書博士は、漢文で書かれた中国の古典(漢籍)の専門的な知識を持っている役人で、中国古典学の大学教授のような有識者です。
新しい年号を決める際、文章博士たちから、年号の案とその典拠となる漢籍の一節を書いた文章(年号勘文、ねんごうかんもん)が提出されて、どの案がよいかという議論、難陳(なんちん)がなされていました。
公卿が行った難陳の議論は、先例を重視するもので、不吉なことがあったときの文字だから使わない、この文字には悪い意味があるから避ける、といったことが話し合われました。議論の結果、残った候補年号が天皇に報告され、採用されます。
<中央大学文学部教授 水上 雅晴「年号と改元についておさえておきたい5つのこと」大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 vol.028 – 2018-10-26>
難陳は、江戸時代以前の、元号を天皇が定めた時代、具体的な元号案を審議した会議のことです。会議に参加した公家が、論難したり、この案はダメだ、という、また、この案が良いのは、こういう理由だ、という陳弁したりしたようです。年号の吉凶、典拠を協議
したことを示します。審議を尽くし、結果を奏上し,勅裁を経て年号が決定されました。
これは宮中、朝廷、幕府そして政府でどのように行われていたでしょうか。645年から2019年まで1374年に248個の元号をつくっています。単純な算術ですが、5.5年に1個をつくる計算です。もちろん昭和のように60年であれば22個、平成のように30年であれば45個をつくり続けてきたという割合で20とか40とかのことでなく、240個以上です。
この元号につける名称の言葉を漢籍から探してきたということです。詔書によって改元が公布されるまで、はじめに、年号の候補を文書にして、勘申者は中国の経史から佳字を選び、出典を付して提出する、その年号勘文が奏上された後、審議を経ていました。資料に、大永8年、1528年の勘文写しコピーを示しました。候補に、時安、寛安、享禄とあります。
ここで元号の名づけに、漢字文化を思い合わせることになります。漢字は文字です、詞です。その詞が人々に記憶され、伝わり、伝えられて言葉となっています。漢字が言葉そのものであれば、文化というのは、どういう意内容を持った言葉なのか。漢字文化圏にあることはどのようなことかと思い至ります。漢字は文化を古きから新しきにと誘います
日本法制政文化史を研究する所功さんは、次のように述べています。
年号・元号は漢字文化の一つです。古代中国において発明された漢字は、いわゆる中華帝国の領域だけでなく、東夷・南蛮・西戎・北狄と称された周辺の地域にも広まりました。それに伴って、儒教の経典や漢訳の仏典も、また律令法や儀礼書も、さらには暦法(太陰太陽暦)やこの元号(年号)制度も、東北・東南アジア一帯に伝えられたことにより、一大漢字文化圏を形成しています。
<所功・久禮旦雄・佳乃健一編著『元号読本』創元社、令和元年5月20日 17ページ>
漢字による文化は、儒教経典、翻訳仏教、律令の法律、儀礼を説く書物、暦を読むにも、文字によって、もちろん人々に伝わり、地域、時代に広がっていきました。なかでも元号の制度は日本で行われ続けてきました。そこには漢字文化の現れを見ることになります。
名づけは、時間と空間をとらえて、それを歴史にとどめます。名乗りは、その存在を明らかにすることです。元号は年号による時代を表します。その元号の及ぶ地域に人々が生活をしたできごとを現します。そこに漢字が伝統となるのは、その詞による思い、その言葉による文化の行動があるからです。
おわりに
年号に名づけをする元号は、時代とともに伝えられてきました。元号法が制定されて、現代の時代につける名称は、国民に、より良い理想を示し、書きやすい、読みやすい言葉に改元を表そうとしました。人々に親しみと覚えやすい漢語の名称は、漢字の言葉を組み合わせて名づけとなっています。漢字をもって言語表現の方法とする日本語は、伝えられたことを学び、これからも伝えて学んでいきます。
わたしたちは書記言語に表記の手段として漢字を用い、言語表現を新しくしています。漢字は文字の文化、コトバの文化です。ものごとに言葉でもって表現をする、そこには名があり、名は字であり、その名前に漢字を当てます。コトバの名づけに工夫をしてきた日本語です。はじめに言葉がありました。その表現を理解し、漢字に由来があれば、それをたずね求め、名前について人々は互いに共有する考え方を得ます。
なお、典拠とされた万葉集について、元号のもととしてきました。日文選の張衡「帰田賦」について詳しくお話しませんでした。日本の古代文学には中国文学の影響と享受のことがあり、参考に付します。またの機会があればお話ししましょう。
書物が時を得て出版されて、次に紹介します。東京古典研究会編『令月、時は和し気は清し ―張衡「帰田賦」』 2019年4月29日 MPミヤオビパブリッシングの刊行です。
また、参照URLを、引用に明示し、2019年9月15日、閲覧確認をしています。
参考文献に、森鴎外『元号通覧』講談社学術文庫 令和元年5月1日 を上げます。
文庫の底本は、1926年刊行の鴎外全集に編集されたものをもとに、1953年、鴎外全集第13巻 岩波書店 によっています。 以 上