色の語彙は色彩語彙として日本語を例にしてもとらえやすい。赤、青、黒、白とそれぞれが光のとらえかたにあった。太陽が赤いのは海や山に囲まれた地勢にあるらしい。黄色い太陽、白い色の太陽はまさに陽の光だが、それを赤色にしてしまう日本の風景に日の丸が象徴されるのはわかりよい。そう考えてしまうのも、語と意味の関係にある。
語を意味の領域からとらえる語彙論はその範囲のまとまりをいろいろにすることによって、さまざま語彙がくくられる。若者語彙を位相語とすることがよく行われる。若者が使う語彙だというのでそれをたずねてみると、思春期にある内の語として、うちら語というものに行き当たる。かと思えばギャルが使うというのでギャル語というものに突き当たる。それで、さらにたずねていくと流行語にあって言葉遊びのような言い回しの語がでてきたりする。
そこに位相差があるとすればさまざまジャンルのように分類されることになる。そもそも若者が使う語彙が普通に日本語であってそれはすべて若者が使う語なのだから、その若者を年齢でいうとどの幅になるのかと議論になったりする。その流行に辞書までが老人語というのを編み出したのであるが、どうも若者、老人、そして女性がその特徴を持つ語を使うということらしい。社会の位相を集団のあらわれに、語の使い方があるようだ。
たとえば、うちら語もその時期に限られた集団でしか使われないのだから、そこがなくなる、おわるということがあれば、それは学校時代の永遠の時間がながれた一コマでもあろうけれど、それが思い出となると、そこにある、うちら語はそのままに閉じ込められて社会に出ることはない。同じように、ギャル語と言われたものもおそらくそれが一般社会に出ることはなかった、はずであると、そう思うのだが、そうではなかった。
現に、ギャルというべきか、その命名が時代とともにすたれてなくなったような現象であったであるのが、年齢が下がってJKのようになっている。
>JKとは女子高校生(Joshi Koukousei)または女子高生(Joshi Kousei)の頭文字である。KY、HK、AYなど、様々な言葉を頭文字で語ることが若者の間で使われるが、JKもその一種である。2007年、こうした頭文字略語の存在が話題となり、広く普及(若者の間ではそれ以前から使われている)。日本語族語辞書より
>また、これとは別に大手掲示板サイト“2ちゃんねる”を中心するインターネット内では「常識的に考えて(→常考→JKという段階を経て出来た略)」という意味で使われることも多い。同上、辞書より。
はたして語彙を社会の流行現象に見てしまってよいかということになってきたようである。
語を意味の領域からとらえる語彙論はその範囲のまとまりをいろいろにすることによって、さまざま語彙がくくられる。若者語彙を位相語とすることがよく行われる。若者が使う語彙だというのでそれをたずねてみると、思春期にある内の語として、うちら語というものに行き当たる。かと思えばギャルが使うというのでギャル語というものに突き当たる。それで、さらにたずねていくと流行語にあって言葉遊びのような言い回しの語がでてきたりする。
そこに位相差があるとすればさまざまジャンルのように分類されることになる。そもそも若者が使う語彙が普通に日本語であってそれはすべて若者が使う語なのだから、その若者を年齢でいうとどの幅になるのかと議論になったりする。その流行に辞書までが老人語というのを編み出したのであるが、どうも若者、老人、そして女性がその特徴を持つ語を使うということらしい。社会の位相を集団のあらわれに、語の使い方があるようだ。
たとえば、うちら語もその時期に限られた集団でしか使われないのだから、そこがなくなる、おわるということがあれば、それは学校時代の永遠の時間がながれた一コマでもあろうけれど、それが思い出となると、そこにある、うちら語はそのままに閉じ込められて社会に出ることはない。同じように、ギャル語と言われたものもおそらくそれが一般社会に出ることはなかった、はずであると、そう思うのだが、そうではなかった。
現に、ギャルというべきか、その命名が時代とともにすたれてなくなったような現象であったであるのが、年齢が下がってJKのようになっている。
>JKとは女子高校生(Joshi Koukousei)または女子高生(Joshi Kousei)の頭文字である。KY、HK、AYなど、様々な言葉を頭文字で語ることが若者の間で使われるが、JKもその一種である。2007年、こうした頭文字略語の存在が話題となり、広く普及(若者の間ではそれ以前から使われている)。日本語族語辞書より
>また、これとは別に大手掲示板サイト“2ちゃんねる”を中心するインターネット内では「常識的に考えて(→常考→JKという段階を経て出来た略)」という意味で使われることも多い。同上、辞書より。
はたして語彙を社会の流行現象に見てしまってよいかということになってきたようである。