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句についての論議は日本文法論、標準日本語文法、日本文法文語篇口語篇、名だたる文法論で重要な用語である。
これは言語過程説を唱えた時枝学説の主張する句の単位があってその国語学のうえで、議論をいわば止めてしまった。時枝理論では文法の立場によって議論することを主張するので、そのまっとうな議論から言えば詞辞による句の定義はそれ以上には展開できない。
あるいは山田学説の句についての論議は後継者によって、喚体、述体のそれぞれを文の単位に等しいと前提することがほとんどなので、これもまた句としての土台がそもそも違っている。文という用語の規定がなかった文法研究のことと考えられもする。
あるいはまた詞また連詩の連続を見て句を議論する松下学説では句そのもののとらえ方が難しいものとなる。断句という切れ続きを句に見るので、これの内実は文とのかかわりを明らかにしていない。もっとものちの文法学説では文について付加する形で述べるものがある。
国語文法を日本語文法として議論をする場合には文法対照による句のとらえ方が行われている。例えば、名詞句、動詞句と用いればその説明には英語文法などの説明を以て見ようとする。文法の対照では言語学の議論に及ぶので句の規定は日本語に当てはめるかどうか、困難がある。
文芸、文学による句は重要な概念である。しかしかたや表現、こなた論理となれば、言語観、文法観に根本にかかわるので深いりはできない。句の形式、形態というときにそれは現れるので、言語を扱う視野にはそれぞれを学習する理論となる。
それでは句の単位をどうとらえるとよいか。教科目の文法学習に、国語、日本語の学習なり規範なり、その定義がシンプルであることが望まれる。
文、句にわたしたちが意識する主語の概念をそのままにとらえるだけでよいと考えを進める。単位に区切れば主語あり、主語なしということである。
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