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おかげさまでこうして生きている。年金がなければ給与生活を続けてきただけで退職後の備えをしてきたわけではないので、そういうのもほめられたことでないし、ただ職務としての務めを宮仕えだからと続けてきた。いまこうしていられるのが不思議である。50年近くをまともに過ごしてきたのはその通りであって、その間に年金積み立てをしていたことになるから、それでもこうなるとは考えもしなかった。退休生活は日々に感謝の思いにいろどられていく。喜寿、傘寿、米寿などと将来にはわかりもしない寿命にここで一つは超えても卒寿は届きそうにない、しかしもう遠くに白寿を加えるような、そんな寿命ではなさそうだから、がんサバイバー13年で古傷になりそうなこのごろ、おおかたのみるところで、人さまの健康長寿を祈ることになりそうである。
ひとつの生を知る、ふたつを知ることはない、そうなることがあればそれはひとつの生から運命に翻弄された境遇を迎えることだろうから、やはり一つの生に収束する。ふたつを生きることは苦と苦であろう、楽と楽とを得ることは人間感情と記憶の中では難しい。苦と楽となるか、これもあり得ない。たとえをシンプルに病苦を考えると、寛解を得てのらくちんはないのである、そういう生き方をするうちには苦が記憶から消え去ることはない。しかしそうふるまって生きる結果はある。ふたつを知る、それを生きることとは痛さ、傷みを抱えていることにほかならない。癒えることがあればつかの間のことであろう。人間の記憶と経験は数十年の長さに、還暦を以て換算する算法はよくできていてふた回りの生命力はないのだから、耐えうるのは一巡りに二十年か三十年を足せば、つまりは百までがいいとこなのである。
この齢を迎えて見えてきたことがある。理想と現実、能力と才能、努力と体力、主義と主張と、いずれも一つことととしての成就なる人間活動はむずかしい。せめぎ合ってほどほどのところでいずれかがいわば負けて折れてしまう。愛憎とか、貧富とか、賢愚とか、美醜とか、長短は似たり寄ったりなのである。過不足なくバランスをとることができればいずれが勝ってしまうようなことのなきように歩みを進めるとして、それは他からは見えないことなので、自覚のうちのことでしかない。頑張ってみて。
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