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仏教の論理

2017-03-25 | まさごと
仏教論理学というのを検索して、因明がヒットした。その説明は、インドでおこなわれていた広義の論理学を指すものの仏教での表現で、近年は仏教論理学などとも言われる。と、ウイキペディアに見える。そして、五明をあげる。インドで行われた論理学となる。それを古代インド学問と見ると、インドの論理学とする、

>主張(命題)の証因(「〜であるから」)についての学問である、とした仏教の態度にも見られるように、その背景には各宗派・学派によって否定されてはならないドグマが存在した(仏教では仏陀)という事情がある。仏教以外ではニヤーヤ(規則・規範 Nyāya)という語が論理学を表す語として多く用いられた。以上、ウイキペディアより 

という、特徴を解説する。
命題の証因がキーである。
その論法を見ると、

>争にあたって五分作法(ごぶんさほう)と呼ばれる論式が立てられた。この形式は、主張(宗)・理由(因)・実例(喩)・適合(合)・結論(結)より成る 

とあって、実例の証明であることがわかる。
これを古因明という、とあるので、新因明は、と見て行くと、さきの五分作法を整理して、主張、理由、実例の三支作法、五分作法を整理した、宗、因、喩の三支作法とした、仏教の論理学者である陳那、ディグナーガが見える。

そこで、内の五明が、そこにある因明であたものを、中国に伝播したもののうちで、漢訳されなかったものがあり、そこには、なぜか、因明は、仏教外の学問、外道とされて一段低く見られた、という説明が行われている。




>外道(げどう、サンスクリット:tīrthika)とは、仏教用語で、悟りを得る内道(ないどう)に対する言葉である。
転じて、一般に道に外れた人全般も意味する。


ウイキペディアより

五明(ごみょう、pañcavidyā)とは、古代インドの学問の分類。仏教を通じて日本にも影響を与えた。

内容
仏教においては、仏教内における「内(ない)の五明」と、世俗一般の「外(げ)の五明」とが区別される。

「内の五明」は、
声明(しょうみょう、śabda): 音韻・文法・文学
因明(いんみょう、hetu): 論理学
内明(ないみょう、adhyātma): 教理学
工巧明(くぎょうみょう、śilpakarmasthāna): 工芸・数学・暦学
医方明(いほうみょう、cikitsā): 医学
の5つ。

「外の五明」は、因明、内明の代わりに、
呪術明(じゅじゅつみょう): 呪術
符印明(ふいんみょう): 呪符・呪印
の2つが入る。



陳那(じんな、ちんな、梵: दिग्नाग, Dignāga, ディグナーガ、480年頃-540年頃)は、唯識の立場からの新しい仏教論理学(=因明学)を確立した有相唯識派の仏教思想家。


陳那の因明の特色は、論理学である比量を集大成しただけでなく、現量と呼ばれる認識の規範に、釈迦のさとりが論理を超えたものであるとして、これを組み込んだ点にある。


現量
現量(げんりょう、pratyakSa)とは仏教用語で、因明で用いる判断規範の一つ。もしくは唯識の3つの判断規範の一つ。直接知、直接知覚とも書かれる。
現実に量知すること。色等の諸法に向かって、現実にその自相のままを量知し、みじんも分別推求の念がないもの。直接知覚を意味して、主として感覚器官と外界の事物との接触によって生ずる知覚の過程とその結果の認識内容をいう。

眼耳鼻舌身の5識がそれぞれに対応する境(=認知対象)を縁じる
意識が5識とともに5境を縁ずるもの
5識と同時に起こるもの
定中にあるときの意識
第8識が諸境を縁じる

これらが現量である。これらは唯識でいう現量である。因明での現量は、5識と5同縁、5倶の意識だけである。
陳那の定義でいえば、現量は概念作用を伴わず、対象そのものの個別相(自相)を認識するものである。そのような、直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する規範が現量であり、仏のさとりはそこにあるから、もっとも重要であるとする。

「現量とは、いわば無分別である。‥‥現現別に転ずる。ゆえに現量と名づける。」(因明入正理論)
「よく縁を行じる相は、動ぜず揺れず。自らただ境を照らして、籌らず度せず。分別心を離れて、照らして前の境を符せず、明らかに自体を局る。この故に現量と名づける。」(因明大処 上本)
五根がそれぞれ明らかにみずからの境を照らす。これを名づけて現とする。(因明大処 下末)

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