永世中立国 permanently neutral state/country というと、わたしたちのなかでは、ひとつの国家の在り方として追求されてきた。紛争、戦争の当事者にならない思いからである。しかし現実には、社会科教科書の理想物語となってしまった。その背景には日本が受けた国際の状況にあって、中立保証を受ける困難さである。中立の議論がすっかりと議論を潜めたかに見えるのは、戦後70年の体制であろう。しかし、もともと日本における中立の定義はこのような国際法上に見られるものではない。そこには中道、中庸の語が影響する。例えば政治における右派左派の中立とは、一つの議論をわかりにくくする。あるいはそれは保守革新であれ、労使における資本家と労働者のことであれ、そのよって立つ流派の主義主張が明確でないところがあって、中立の線引きができないところで中道、中庸の道となるように、左右のバランスがない。中庸公正な道という、その理想は中道政治と言われるものとは議論の根本において違うものである。 . . . 本文を読む
国語調査で、存亡の危機が誤用をもって、存亡の機が正しいとする、その結果を発表した。調査についての新聞記事を再録すると、次のようであるが、その記事によると、文化庁9月21日発表、平成28年度、国語に関する世論調査 「存亡の危機」が定着 本来の「存亡の機」を使う人は6.6%にとどまる となる。これでよいのかと、いつにもまして、この調査項目の結果である。それを受けているマスメディアが、何が何かわからない報道も相変わらずだと思う。まあ、誤用にしたいわけであるから、それをもって国語についての云々をするのは、言葉を扱い、啓蒙をするのだから、国語調査の原点に立ち返ることが望まれる。さて、存亡の、と聞けば、ふつうには、存亡の危機となってしまう、国家存亡の危機であって、それが危急存亡とするか、それを用いた村山談話の、元首相の表現は引用において人口に膾炙するものを用いたのである。そこで、言葉の用法の解説で、本来は、となれば、存亡のとき、というふうに、その語を知る者は思うが、そんぼうのときをむかえる、この機の読み方を、とき として訓じるのはかなり難しいが、そのもとである、存亡の秋を、そんぼうのとき と読むかどうかである。 . . . 本文を読む
土曜日の秋分の日、そして日曜日と連休をもって、久しぶりの晴れに恵まれて、蔵書整理をした。まだまだ、さきが見えない。この4月来、やっと決めごとをして、本を処分するとなる。倉庫で積み上げた、箱詰めのものを動かす。さがしものをする。本のせなか、その背表紙が見えなくなると死蔵となるから、箱に入れたりするともってのほか、段ボールの表にインデックスよろしく覚えが書いてある、それも叢書かシリーズのものだと役立つが、そうでないと、ふたを開けることになる。閉めて張り付けたガムテープを外すが、中身を見ての積み直しはかなりの重労働である。本を知る者には横積みでも構わないのだけれど、よく知るには縦置きが一番で本棚の便利さである。いまその空間を持ちえないので、広げておける書斎とかあればよいというのはたやすいが、その思いをずっとし続けてきた。小説家の書庫、恩師の書庫、図書館の書庫、そして蔵書がたどる運命は、ここかしこ、記念の蔵書コーナーというのを見れば迫りくるものがある。古書屋の倉庫をのぞくとその思いも吹っ飛んでしまうような顛末となる。熱中症になるかというほど、それはならないように、汗だくになり、本のほこりを吸い、肩を痛めるほどに作業をして、労働が今日は終わった。いつまで続くか。 . . . 本文を読む
曖昧であるとして、それを場面に考える。対人場面となる。そうするとそのコミュニケーションにあいまいさが現れるというのは、断定の答えを避けるということである。それはそれでよいのでないか。曖昧であるという表現が日本語で、曰く言い難し、言いにくいところを言わない、というのだから、それが場面に応じて現れた場合に積極的な、説得的な物言いではなくして、含みを持つ応えかたなのだから、それを評価することがあってよい。曖昧が、いい加減だとか、優柔不断であるとか、どちらかわからないなどとなるのは、そこにある状況が生まれているからである。対応に出た役所の役人であるとしてみれば、マニュアル通り、規則にしたがえば、それは市民生活に対応する適切な方法がとられている。ただ、集団と個の発想の違いがあるので、そのやり取りでは、検討します、考えておきます、などと、婉曲に時間を言われれば、受け止め方と交渉を考えていくことになって、曖昧であることは問題点を明らかにすることでチャンスを作る日本人である。ちなみに、ツイッターというのは、ストレートである物言いがもてはやされるが、あれは、ストレートでも何でもない、表現法に修辞の一つで、つぶやく自分に気づけば、小言による、言葉のなじり合戦の極みとなるから、曖昧な方がよっぽどいいことである。 . . . 本文を読む
秋分の日、日曜日、連休である、土日となって週休二日に重なった。先週の連休に続く。天候は秋らしくなった。気温に朝夕の肌寒さを感じる。倉庫を壊して1年、研究室を出て半年、懸案解決から2か月、そろそろと身体が慣れてきた。ぼけ日記にはふさわしい材料もなくなって、脳の命令にもリズムができつつあるが、仕事をしないということがどういうことか、まだいまひとつわからない。整理がいまひとつ進まなかった、暑い夏と身体疲労のことがあるからだろうが、それがどうもここにきて、わかることが出てきた。書物の整理を始めて大きな辞書を処分、買った当時の値の10分の一にもならないが、どこかで役立てばという思いで、売りに出してもらうことになるが、本の整理には自分で一つずつやることと決めた。この間のこと、書斎の蔵書をどうするかで、まずは捨てる、次には焼く、そして一冊ずつに別れをする、という結論を出して、結局それができない。読むこと、見ること、使うこと、それに保存することをもって、資料の役割が終わる。保管をするか、目録として残すか、それを紙媒体の時代が必然としたことが電子媒体の時代になって発想を変えることになる。愛用の日本国語大辞典にもさようならをする。
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指導は柔道用語にもなった。審判の裁定になるか、禁止事項のごく軽い犯し方をしたものについて、試合を止めて行われる。日本語が国際の場面で用いられる。というふうに、意味内容を拡大している。類語辞典に、意義素によって言い換えを持つ。が、この語を辞書義でみると、大辞林 第三版の解説では、ある意図された方向に教え導くこと、としている、デジタル大辞泉の解説では、ある目的、方向に向かって教え導くこと、と同様の記述をするのは、字義によるともみられるが、もとは、指南と言ったのだから、ほかに説明するにも、南の方向を指さすだけとなって、それでは、それが何を意味するのかということである。さきの柔道用語で南ならぬ、悪しき技などの行為に注意を向けるというのったら、それはルールブックのことでわかりよい。それで、日本語の指導は指導者の意味を持つと、それなりにその分野の指導の内容を明らかにする、行政指導、学習指導要領、指導書など、その結果としてものも意味内容が規定される。日本の国際的な役割に、指導者の目指すところはどういうものになるのか、その理想などは語られることがないから、指導という語には実践的な結果を求めるものに用いることとなる。 . . . 本文を読む
先進的に行う、という、その先進は積極果敢である。先進が目に見えて先鋭であればわたしたちの社会、政治に大きく異なったことが起こるであろうが、そうもいかないところに先進の意味あいが現れる。先鋭芸術など用いれば、それは想像を超えることになる。先進はまた先端のことでもあった。そのそれそれが語によって用いられて、程よく日本語となる。先端技術というのもどの部分の技術改良かと思わせてしまう。この先進に現れるのは実は進取のことである。進取の気象といって、そのアイデアを貴び奨励もしてきた。言葉を変えれば、新しいものにつねに気を向けることであるかと思われるが、言うほどにやさしくはないし、集団の平均にあって進取の気象を発揮するのは能力、実力だけのことではない。わたしたちの先進には改良改善、創意工夫、着想斬新、そして学習の上で実行されるものであるから、そこには、何ものにも代えがたい人心に宿命があるようである。 . . . 本文を読む
>文化庁「炎上参加は少数、20代が中心」初めて浮き彫りに
文化庁が21日に発表した2016年度「国語に関する世論調査」では、20代の1割が、インターネット上の個人コメント欄に批判が殺到し「炎上」しているのを見て、自分もコメントを書き込んだり、他のサイトに再投稿する「拡散」をしたり「すると思う」と答えたことも分かった。全世代平均の約4倍と他年代に比べて突出して高く、一部の20代が炎上をあおっていることがうかがえる。 . . . 本文を読む
生産を生産高でとらえる。それは消費動向を基にする。消費を考えない生産はただ産出に過ぎない。生産と生産高を計画経済である指標のもとに生産し続けると、その指標は物量を競うことになる、労働者はその労働力を生産物で測る、あるいは労働の証に作り続けるということを蓄積量によってその物量の大きさだけが求められる。1990年代に中国に出かけてその光景をいくつも目にした。取り出して言えば、バスタブがいくつもつくられ、それが野ざらしで山積みになっている、鉄鋼製品があってそれが倉庫にわんさか入っていると言った、それこそ奇妙な光景である。そのバスタブが大きくて大陸使用のどでかいもので、ホテルの製品としてしつらえるのだが、ホテルというのは招待所であったり、そのころの建築にはとにかく規格サイズにその生産物が収められるようになっているのだが、まったく、いくつあるのだろうと、放置されたものを眺めた覚えがある。そのころから、中国経済は1国2制度にあって、管理経済に転換を遂げる。訪ねるたびにホテルの部屋サイズが縮小して、バスタブが身長サイズに替わっていた。これは日本での光景に合わせた生産をとらえると自動車の生産量に見ることになる。世界生産という表現は輸出としてまずはあったから、港に積載待ちの自動車の量をなす列は、どこの国へ輸出するのかと、生産と販売を思わせた。 . . . 本文を読む
学習を学ぶ習うと訓じた。その意味内容を持つ言葉が日本語にあった。これは偶然であるか、言語によって少しの違いはあれ、似たような表現があるということだろう。しかしそれを学習または学習するというふうに日本語に取り入れて学ぶことと習うこととを行った。それは単なる模倣ではない、修練ではない、学習するものには思想と生活、政治と人生があった。日本の風土にあって勤勉であることが学習に加えられて勉強するという努力が行われた。その学習にまた研究があり、創意工夫のもととなった。学習はすべてにわたって行動規範となり、民族を維持、堅持する何ものかになった。学習は人間の成長にとってそれを実行することが人格形成につながる。日本人の性格は学習によって作り出された独自性となる。学習の対象は常に言語とともにあったからである。どの言語であれ、また言語に伴う概念、哲学、科学思想をもその対象になった。誠に学習する希有な民族である、日本は。 . . . 本文を読む