島根県太田市大森町。
「岩見銀山遺跡とその文化的景観」として、2007年に世界遺産登録。
①鉱山遺跡。
②鉱山町。
③鉱山積み出し港。
④鉱山街道。
⑤山城。
これらを保全することの、文化的価値が評価されたものです。
当初は、他の候補地に比べて、シンボリックな建物もなく、申請はしたものの、登録は無理だろ
うと、誰もがあきらめていたそうです。
ところが、間際になって、山の一部に石の段が発見され、掘って見たら、大きな鉱山遺跡が現
れました。
調査に訪れていた人たちも、あんな緑豊かな山の下に、大きな遺跡があったことに驚き、日本
と言う国の自然の回復力のすごさに、感嘆したそうです。
これが決めてになり、世界遺産登録に至ったとのことです。
岩見での銀の算出は、古く、1300年代にはじまります。
大内、尼子、毛利など戦国大名達の主導権争いの後、関ヶ原の戦いに勝った、徳川家康が、
天領として管理するようになります。
天領は幕府の直轄地を意味しますが、土地そのものを管理するのではなく、土地は、私有のま
ま、経済産業に励ませて、租税を納めさせるものです。
税の徴収権を幕府が握ると言うことです。
岩見銀山の山は、出雲国ですが、鉱脈を掘り当てると、それは私有権になります。
幕府は、代官所を置き、山に坑道を掘らせ、この坑道を10mおきくらいに、貸与して、採掘権を
与え銀を掘らせました。これを、間歩といいます。石見銀山には、600を超える間歩がありま
す。
間歩で掘った銀は、掘ったものの所有ですが、儲けの一部を、租税として納めさせました。
当時の貨幣価値から計算すると、銀の採掘は、かなり、分のいい商売であったらしく、多くの鉱
夫が集まって来て街を形成したそうです。
幕府が、罪人を送り込んで、金を掘らせた、佐渡金山のイメージとは、かなり違いました。
佐渡金山を見た時は、悲惨な状態に、暗い気分になったものですが、この、岩見では、みんな
が、金(かね)を目当てに、意欲的に働いたそうです。
それでも、狭い坑内で、明かり取りの煤や、粉じんの吸引で、死んで行くものが多く、40歳を超
えるものは、まれだったそうです。
人生50年の時代ですから、精一杯、稼いで、満足して死んでいったのでしょう。
↑間歩。
この間歩は、坑道を使わずに、個人が、直接露天から掘り進んでいます。
石見銀山で最大の、龍源寺間歩。
これは、代官が坑道を掘って、鉱夫を募集した代官間歩です。
やはり、このような作業を見ると、いくら、金になるとは言っても、厳しい仕事だったようです。
↑銀鉱石を焼成して、銀を取り出した場所。
銀鉱石に、鉛を混ぜて、銀ー鉛合金として精製したのち、銀と鉛の融点の差を利用して、銀、鉛を分けます。
ちっと一息入れて、また、明日ご覧ください