blog.mcnj

花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

山陰の旅 5 岩見銀山(1)

2013-09-17 00:12:00 | 写真

島根県太田市大森町。

「岩見銀山遺跡とその文化的景観」として、2007年に世界遺産登録。

 ①鉱山遺跡。

 ②鉱山町。

 ③鉱山積み出し港。

 ④鉱山街道。

 ⑤山城。

これらを保全することの、文化的価値が評価されたものです。

当初は、他の候補地に比べて、シンボリックな建物もなく、申請はしたものの、登録は無理だろ

うと、誰もがあきらめていたそうです。

ところが、間際になって、山の一部に石の段が発見され、掘って見たら、大きな鉱山遺跡が現

れました。

調査に訪れていた人たちも、あんな緑豊かな山の下に、大きな遺跡があったことに驚き、日本

と言う国の自然の回復力のすごさに、感嘆したそうです。

これが決めてになり、世界遺産登録に至ったとのことです。

Img039_5

岩見での銀の算出は、古く、1300年代にはじまります。

大内、尼子、毛利など戦国大名達の主導権争いの後、関ヶ原の戦いに勝った、徳川家康が、

天領として管理するようになります。

天領は幕府の直轄地を意味しますが、土地そのものを管理するのではなく、土地は、私有のま

ま、経済産業に励ませて、租税を納めさせるものです。

税の徴収権を幕府が握ると言うことです。

岩見銀山の山は、出雲国ですが、鉱脈を掘り当てると、それは私有権になります。

幕府は、代官所を置き、山に坑道を掘らせ、この坑道を10mおきくらいに、貸与して、採掘権を

与え銀を掘らせました。これを、間歩といいます。石見銀山には、600を超える間歩がありま

す。

間歩で掘った銀は、掘ったものの所有ですが、儲けの一部を、租税として納めさせました。

当時の貨幣価値から計算すると、銀の採掘は、かなり、分のいい商売であったらしく、多くの鉱

夫が集まって来て街を形成したそうです。

幕府が、罪人を送り込んで、金を掘らせた、佐渡金山のイメージとは、かなり違いました。

佐渡金山を見た時は、悲惨な状態に、暗い気分になったものですが、この、岩見では、みんな

が、金(かね)を目当てに、意欲的に働いたそうです。

それでも、狭い坑内で、明かり取りの煤や、粉じんの吸引で、死んで行くものが多く、40歳を超

えるものは、まれだったそうです。

人生50年の時代ですから、精一杯、稼いで、満足して死んでいったのでしょう。

056

↑間歩。

この間歩は、坑道を使わずに、個人が、直接露天から掘り進んでいます。

058

060_2

059_2_2

Img039_4

石見銀山で最大の、龍源寺間歩。

これは、代官が坑道を掘って、鉱夫を募集した代官間歩です。

065_2

066_2_2

067_2_2

068_2

069_2

070_2

071_2

064

072

073

074_2

075

やはり、このような作業を見ると、いくら、金になるとは言っても、厳しい仕事だったようです。

046

↑銀鉱石を焼成して、銀を取り出した場所。

銀鉱石に、鉛を混ぜて、銀ー鉛合金として精製したのち、銀と鉛の融点の差を利用して、銀、鉛を分けます。

ちっと一息入れて、また、明日ご覧ください