早起きいたしました。
ただいま午前5時、まだ真っ暗です。
気温はプラス2度とこの秋一番の冷え込みだ。
北海道の北、道北方面では軒並みマイナスの気温です。
寒くなってまいりました。
きのうは、日中ぽかぽか陽気となりました。
小春日和とか、インデアンサマーとか申します。
陽気がいいので、昼過ぎにお近くの蘭越町へ。
ブランド米「らんこし米」で知られる農業と観光の町です。
そこで「キララ共和国建国祭」という収穫祭があるというので行ったのです。
会場では、あれやこれやのきのこがたっぷり入った1杯100円の「きのこ汁」と、新米のおにぎり2個200円の昼食をいただいた。
うまかったぁ~
またフリマがあって、小さなタマネギが袋に詰め放題200円というので買ってきた。
小さなタマネギは我が家では重宝するのです。
古本も格安で売っておって共同通信社社会部編の「沈黙のファイル」という定価1600円の本を、なんと10円で売ってました。
これがなかなか出色の本なのだ。
ニッポンの戦前戦後について関係者のインタビューに基づいた1996年発刊の本だ。
紀伊國屋書店のHPに本の紹介が載っておりました。
「敗戦、シベリア抑留、賠償ビジネス、防衛庁商戦、中曽根政権誕生…。元大本営参謀・瀬島龍三の足跡はそのまま、謎に包まれた戦中・戦後の裏面史と重なる」
「エリート参謀は、どのように無謀な戦争に突っ走っていったのか」
「なぜ戦後によみがえり、政界の『影のキーマン』となりえたのか。幅広い関係者への取材により、日本現代史の暗部に迫ったノンフィクション。日本推理作家協会賞受賞」とある。
歴史修正主義などという、いかがわしい皆さんは、こうした真実に基づいた歴史に向き合ってほしいけどまあ、ムリなのだろう。
この本の最後に資料編がついており、当時の皆さんの肉声が記録されておってまことに興味深い。
戦争が始まる1年前、陸軍作戦本部にいた参謀の井本熊男は、開戦に反対し更迭された人物で、1995年7月インタビューに応じておる。
インタビューでは、ノモンハンで参謀本部に無断で紛争を拡大させ、約2万人の死傷者を出した服部卓四郎と辻政信が登場する。
ノモンハンの件でこのふたりは一時的に左遷されたけど責任は問われず、1年後服部は作戦課のかなめの作戦班長に抜擢されておる。
東南アジアに石油、ゴムなど戦略物資を求める「南進」を進めたのがこの服部卓四郎だ。
この服部と深い絆で結ばれていたのが辻政信だ。
参謀の井本熊男は1941年8月、参謀本部作戦室で辻政信にこう詰め寄ったという。
「あんたには、日本が焦土と化しても戦争をやる覚悟があるのか」
「米国と戦えば本土が空襲にさらされる。そうなれば目も当てられないぞ」
そしたら辻はこういったという。
「戦争はやってみないとわからんじゃないか」
その後、井本熊男参謀は更迭される。
ほかにも服部卓四郎の同期の石井秋穂の手記にこうあるという。
「服部は目をギラギラと怒らせ『オレはもう戦争を固く決意し絶対に変えない。今陸軍大臣のなすべきことは連日連夜でも参内して開戦の必要なことを言上することだ。貴様帰って大臣にそう具申せよ』と迫った。天皇を啓蒙せよという言うことだ。私は深入りを避け、帆をまいて退散した」
御前会議で昭和天皇は明治天皇の歌「四方の海みなはらからと思う世に など波風の立ちさはぐらむ」に託して開戦に危惧の念を表明した、そうだ。
参謀の井本熊男が「米国と戦えば本土が空襲にさらされる。そうなれば目も当てられないぞ」と言ったことがその通りとなって、ニッポンは戦争に惨敗した。
この戦争で、300万人を超えるニッポン人が亡くなった。
辻政信は「戦争はやってみないとわからんじゃないか」といった。
300万人を殺してしまった戦争が「やってみないとわからん」ってあまりにテキトーで言葉もない。
開戦前、連合艦隊長官の山本五十六は「初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる」といったそうだ。
これは半年なら何とかなるけど、それから先はわからんということ。
実際、12月のハワイ奇襲から半年後の昭和17年6月、日本海軍はミッドウェ―海戦で空母4隻と航空機290機すべてを失う大敗北を喫する。
ここから延々昭和20年まで負け続け、井本が言った通り、東京は空襲され、8月に広島と長崎に原爆が投下されてニッポンは敗けた。
太平洋戦争は、大きな声の軍人たちの大暴走が招いたキチガイ沙汰でした。
大きな声で人を威圧し、やたら威勢のいい人には注意しないといけません。
安倍さんを頂点とする歴史修正主義者の皆さんは、こうした「事実」を見ないようにしてるんだろなぁ~
などと「沈黙のファイル」をパラパラ眺めながら、改めて思うニセコのおぢなのでした。