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水戸の見て歩き

水戸の商人

2024-11-29 21:32:46 | 水戸

 

道明作兵衛
 江戸初期に紀州から水戸に来て、本1町目に井筒屋という酒屋を開き、寛文年間(1661-73)に大きくなり、醸造高3000石という酒蔵になったそうです。正月8日におこなわれた田町(本町)の初市開きでは、「作兵衛の五色の吹き流しが立てられたぞ!エンヤラヤ!」という合図で市が始められたそうです。東照宮の吹き流しも、道明ひとりで奉納していたそうです。備前堀対岸の紺屋町先にあった田へ行くためにつくった橋が、道明橋という名前で、今にその名を残しているようです。その後、道明は、衰退して紀州に戻ったそうです。写真は備前堀にかかる道明橋です。

 

高野惣兵衛之茂
 水戸下市・本七町目で酒造業を営んでいたそうです。御目見得格(おめみえかく 藩主への謁見がゆるされる家格)で、藩主が水戸に来る際には七軒町の木戸際に並んで出迎えることのできる家柄だったそうです。長男は林家の養子となった画家の林十江で、次男が家を継いだそうです。俳名は悟井で、俳僧・遅月の弟子だったそうで、遅月が瓦谷に瓦隣居(がりんきょ)と号して住んだときはそれを支えたそうです。

 

大高織衛門守善
 木葉下の庄屋大高清左衛門の弟が、元禄時代に水戸城下に出て呉服太物商を営み、3代目が天明3年(1783)に庄屋になったそうです。6代目守善は御目見得格になり、呉服太物の本業の外に、弘道館の医薬館が精製した紫雪などの薬種などを一手販売したり、茶を好み宍戸(ししど)藩主命名による延年楼という茶室を建てたそうです。また、斉昭の追鳥狩にも参加したそうです。神力宇賀大妙神稲荷(末広町2-1-40)は、屋敷内に7代守之が建てたものだそうです。写真は東日本大震災で立入禁止になっている神力宇賀大明神稲荷です。

 

塙載(はなわとし)
 寛永2年(1625)に、大町から金町に移ったとき、藩主から土地をもらった2人の商人の内の一人だったそうです。代々、呉服商を営み、町年寄だったそうです。幕末の戴は父とともに松平頼徳勢に加わったりしたそうです。戴は息子の七平に早く代を譲り、隠居して能楽に打ち込んだり、茶の水戸何陋会2代目会長になったり、水戸鉄道敷設に参加したりしたそうです。

 

富田彦市
 富田屋は、江戸初期に大町から上金町に移った商人で、塩などの問屋だったそうです。明治の富田彦市は、明治8年にハカリや枡などの衡器を扱う専門店となったりして急拡大したそうです。明治20年代に泉町の酒屋伊勢富の屋敷2万坪を買収して富田新地という飲食店街や寄席をつくって水雷稲荷を勧請したり、釜神町に富田公園といわれた別荘(現在の県営釜神町アパートの地)をつくったりしたそうです。


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