色即是空
ご存知、般若心経からの言葉です。
無信心な自分にはこの言葉を書く資格もありませんが、何やら言葉の響きもいいし、
またこの四文字には書道心を擽られる何かがあり、筆をとってみました。
お手本としたのは
“色”と“空”が松本芳翠先生、“是”が王義之、“即”は胡問遂(20世紀、中国の書家)です。
書道としては、出来るだけ雑念を払ったものにいたしたく何回かの練習の後、
一気に書き上げましたが、まだまだ迷いの抜けきらない、
と言うより(よく見せたいという)色気たっぷりの字になってしまいました。
ところで『色即是空』、何度も目にした言葉ですが、その意味はとなると、
恥ずかしながら全く理解することもなく今まできていました。
書道の教室仲間の方もこの般若心経の写経をなされているのをみかけましたが、
“大変だろうな”ぐらいの感覚で自分は遠慮していました。
でも今回書にするからには、この言葉の意味など、少しは勉強しておかねばと、
この一週間ほど、文字通りの俄か勉強をやりました。
仏教の基本的なことも分からぬ自分には難しいことばかりですが、
自分なりにちょこっとは分かったかなと思ったことや感じたことを、
自分自身の記録として書き留めておきたいと思います。
できるだけ自分の言葉でと思いますが、引用させていただいた個所も多々であります。
今回も少々長くなりますが、テーマがテーマだけに、お許しください。
『色即是空』を知る前にその本体である『般若心経』がどういうものであるか、からの勉強からです。
般若心経は、紀元前後頃からインドで起こった大乗仏教の一つで、わずか262文字の短い経典です。(巻末[参考]に全文を)
web上にある解釈や解説を中心に読み進め、先ず感じたこと、それは
壮大な「存在論」だなあ、という印象です。
この経典、最初の出だしは“観自在菩薩・・・”となっています。
つまり、菩薩が自分の存在について考察してみた・・・即ち、自分(や世界)の存在とはどういうものか、
という存在論が大きなテーマになっています。
その結果、五蘊(ごうん 現象としての存在を構成するもの、細部後述)は、
結局は実体が何もなく「空」だということが分かった、
またそのおかげで苦厄からも解放された・・・という一節から始まります。
そのあと、この「空」の概念を使いながら、もろもろの存在を一旦シャッフルし、
最後に真言(マントラ)を説いて終わるという構成になっています。
キリスト教やイスラム教のように絶対的な教祖の教えがあり、
その教えはかくあるべし、と説くわけでもないようです。
ここに出てくる菩薩の言葉を借りながらその教えを淡々と教えているだけのように見えます。
それゆえ汎用性といったら語弊があるかもしれませんが、
根本的なところで共通する何かがあるようにも思われました。
次に教えられたのは、
仏教の因果論に基づき、「空」を強調した内容だな、ということです。
西洋では、「我思う故に我あり」(デカルト)に代表されるように
“我”というものを前面に押していますが、
仏教はここも控えめだとのことです。
仏教では根本原理として因果律(因果論、縁起などとも)といわれるのがあり、
「一切の事物は固定的な実体をもたず、
様々な原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立している」(広辞苑)
とするもののようです。
例えば、“父”と “子”という概念についても、
「普通は父が最初に存在するから子があると考えられているが、
“父”という存在は“子”が誕生した時点から“父”となったのであって、
それ以前の時点では、父-子の関係はなかった。」(河波昌氏)
とされています。
すべてが相互依存・相互関連性においてあり、それ自体には実体がなく、
そして、この実体がないというこの真実を正に『空』と呼ぶこととされているようです。
もともと般若心経以前の初期仏教において、
この『空』という概念がどの程度意識されたかについては分かりません(諸説あるようです)。
ただ、初期仏教においても、
“苦”の原因は、自己への執着に伴う“煩悩”であるという因果律で認識され、
その因たる煩悩を絶ってこそ“涅槃”に至るとされ、
そのために出家・修行によって“自力救済”を説いた、とされています。
大乗仏教の時代になり、その中でも般若心経ではこの『空』を強調したところがこの経典の特徴のようです。
出だしの冒頭で見ましたように、
まずは自己を構成する五蘊(ごうん)には実体がなく空(くう)である
とするところから始まります。
そもそも五蘊とは何か、
仏教独特の用語で、“現象的存在”とよばれる現象界での存在のことで、それは次の五種、即ち、
色(しき)(物質と肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(知識)を
いうようです。
一切の存在(現象的存在)はこの五蘊から成り立っている、とされ、
これらの存在(現象的存在)は、因縁によって生じたり滅したりする、
とされているところがポイントのようです。
やっと色(しき)なる用語が出てきましたが、
五つのうち、色だけが物質でほかの四つは精神・心的なものなっています。
『色即是空』とはこの五つの要素の一つである色の部分を取り上げ、
これには実体がなく空(くう)なのだ、とするものです。
そして『空即是色』と続きますが、この意味するところは
「(仏教でいう)存在は空であり変化する性質であるからこそ、
あらゆるものは形を持つことができ、また形を変えることができる。」
(webサイト 禅の視点-life-様)とされています。
シャッフルしたあとの新しい世界の展開であり、積極的な意義づけであり、
ある意味ではこちらの比重が大きいのかもしれません。
この経典では、そのあとも否定が続きます。
これら五つの構成要素には実体がなく、
生も滅も、迷いや老いや死の苦しみもない・・と続きます。
262文字中、「無」という文字が21回使われているところからも
その否定対象の多さがうかがわれます。
その中には「釈迦の教えでもレベルの高い、
苦しみのもとである“煩悩”も無いし、その“煩悩が消え去る”ことも無い(無無明、亦無無明尽)とこれを否定し、
実はこれすらも空なのだ」とし(佐々木閑氏)、
より超然とした世界観に立っているとのことです。
そして最後に真言(マントラ)が準備されています。
齋藤孝先生は“声に出し読みたい日本語”の中の般若心経の紹介の中で、
特に、この経典の読経について、
「・・・読経の声は独特だ。低い響きが空間を満たし、からだを揺さぶる。・・・」と
その音の響きの重要性に触れておられました。
長くなりました。
“シャッフル”という言葉から、自分はサッカー選手の試合後のインタービューを想い起しました。
彼らから出てくる言葉は実にサッパリして、すでに終わったことを引きずっていないのです。
そしてすぐにその人の、次の課題のことを話すのです。
スポーツ選手共通かもしれませんが、特にサッカー選手のそれが顕著に自分には映ります。
この般若心経から何を学ぶか、はてさてであります。
最後に『零』の概念もインド発祥とされているようです。
今回の『空』といい、何物をも吞み込んでしまうガンジス川の深さ
(拙ブログ“玉ねぎと遠藤周作氏の「深い河」”2010.5.31付)といい、
やはりインドには物凄い何かがあるようです。
[参考]
[般若波羅蜜多心経]
唐三蔵法師玄奘訳
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、
舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是、
舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中、
無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界
無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無徳、以無所得故、
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙故、無有恐怖、
遠離(一切)顚倒夢想、究竟涅槃、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、徳阿耨多羅三藐三菩提、
故知般若波羅蜜多、是大神咒。是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
能除一切苦、真実不虚、故説般若波羅蜜多咒、即説咒曰
羯帝羯帝、般羅羯帝、般羅僧羯帝、菩提莎訶
弟も含め我が家は大乗仏教浄土真宗なので修行を伴う般若心経はないのですが、弟の月命日には浅い知識のまま般若心経を読んでいました。
今度からは作者のありがたい書と深い解説を思い起こしながら仏壇に向います。
謙遜されていますが、元々知識はおありだったのでしょう。これを1週間で整理したとすれば、凄いと思います。
定年後、親の最後も看取り、一応自分達夫婦の事だけになった今、どのように生き何を生きがいにしようかと考える昨今、気持ちの持ち方に非常に参考になるような気がしました。
今回も色々と教えて頂き、ありがとう御座いました。