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健大高崎の豪快な甲子園初戦突破を見届けてから最盛期を迎えているとの噂の
保渡田古墳群西側のひまわり畑を見に行った。古墳の宝庫と言われる
群馬県で確認されている古墳は一万五千基を超えると云われるが高崎市内にも
ざっと数えても百基以上もあり、その内で大きさや保存状態の点で
ここの古墳は代表的。
古代に想いを馳せれば、三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から
海路で東京湾に上陸、利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その灌漑技術に
よって現地の弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を実現した。不毛の地が
「毛野」に変貌した瞬間である。彼らの頭領たる王はその死後、高崎・元島名町の
「将軍塚古墳(県内最古)」に葬られた。それが四世紀の事だという。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍。彼らは周到な計画を以って
渡来人を多数招聘して先進技術を導入、農業・馬生産・手工業を興す。
この高崎北部の地は開明の王を戴いて繁栄し大王は5世紀後半に、二子山古墳→
八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで建設し、この地に有力な豪族がいたことを
現代に伝えた。その名は上毛野氏の同族の「車持氏」。「くるま」は「ぐんま」になって
彼等の存在が伝承されている。
これが復元された八幡塚古墳の南側からの全景。
墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られる。周囲には、内堀・外堀・
外周溝が巡り、それらの間には内提・外提が設けられている。
葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う
外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつける
ように葺いたもの。
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関係者によって設置された出土品のレプリカ。
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この中の赤矢印の人物が大王に擬せられている。
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だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に榛名山が1万年の静寂を破って突然噴火し
火砕流が山腹を下り多くの犠牲者が出る。
火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、せき止められた自然ダムが
決壊して土石流が山麓を埋め尽くした。その25年後には第二回の爆発で大量の
軽石が数メートルも降り積もる。そして、高崎に文明を開いたこれら豪族達は古墳を
残して忽然と消息を絶つ。最盛期は僅かに半世紀程度だったらしい。
そして約1500年後に群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査によって発見され、
その全容が確認されるまでこの豪族の痕跡は永く眠り続けたのだ。
相変わらずの猛暑の中、古墳群西側のひまわり畑へ。意外にもこの暑さの中、多くの
人が見物に訪れていた。ひまわり畑は定番の迷路が作られているので子供たちに
人気があるらしい。
花は背丈を遥かに超えるので全体も見られるように畑の中に櫓が組まれ展望台の
役目をしていた。期待した花に群がる昆虫たちとのコラボ写真は虫たちの姿が見えずに
駄目、若しかすると早朝とか夕刻が活動時間なのかも。或いは農薬?
花は全て東向き。和名の向日葵の由来にもなっている太陽の動きにつれてその方向を追うように
花が回るといわれて居るのは間違いと実感。
この動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな
若い時期だけであるそうだ。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、
朝には東を向いていたのが夕方には西を向くらしい。
夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが
大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。その過程で日中の西への動きが
だんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた
花は基本的に東を向いたままほとんど動かないのだ。
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纏めはデジブックで。
デジブック 『埴輪の里公園の向日葵』
日陰の無い場所での長居は年寄りには危険なのでポカリをがぶ飲みしつつも
早々に退散。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
保渡田古墳群西側のひまわり畑を見に行った。古墳の宝庫と言われる
群馬県で確認されている古墳は一万五千基を超えると云われるが高崎市内にも
ざっと数えても百基以上もあり、その内で大きさや保存状態の点で
ここの古墳は代表的。
古代に想いを馳せれば、三世紀の頃、高度な農業技術を持った大集団が東海地方から
海路で東京湾に上陸、利根川を遡上して高崎周辺の低湿地帯に至り、その灌漑技術に
よって現地の弥生人たちが為し得なかった湿地の水田化を実現した。不毛の地が
「毛野」に変貌した瞬間である。彼らの頭領たる王はその死後、高崎・元島名町の
「将軍塚古墳(県内最古)」に葬られた。それが四世紀の事だという。
そして五世紀の後半、榛名山東南麓を開発する豪族が活躍。彼らは周到な計画を以って
渡来人を多数招聘して先進技術を導入、農業・馬生産・手工業を興す。
この高崎北部の地は開明の王を戴いて繁栄し大王は5世紀後半に、二子山古墳→
八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで建設し、この地に有力な豪族がいたことを
現代に伝えた。その名は上毛野氏の同族の「車持氏」。「くるま」は「ぐんま」になって
彼等の存在が伝承されている。
これが復元された八幡塚古墳の南側からの全景。
墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られる。周囲には、内堀・外堀・
外周溝が巡り、それらの間には内提・外提が設けられている。
葺石(ふきいし)とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う
外部施設の1つで、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつける
ように葺いたもの。
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関係者によって設置された出土品のレプリカ。
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この中の赤矢印の人物が大王に擬せられている。
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だがこの地域はその絶頂期の五世紀末に榛名山が1万年の静寂を破って突然噴火し
火砕流が山腹を下り多くの犠牲者が出る。
火砕流は広範囲の森林・耕地・村々を焼き払い、せき止められた自然ダムが
決壊して土石流が山麓を埋め尽くした。その25年後には第二回の爆発で大量の
軽石が数メートルも降り積もる。そして、高崎に文明を開いたこれら豪族達は古墳を
残して忽然と消息を絶つ。最盛期は僅かに半世紀程度だったらしい。
そして約1500年後に群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査によって発見され、
その全容が確認されるまでこの豪族の痕跡は永く眠り続けたのだ。
相変わらずの猛暑の中、古墳群西側のひまわり畑へ。意外にもこの暑さの中、多くの
人が見物に訪れていた。ひまわり畑は定番の迷路が作られているので子供たちに
人気があるらしい。
花は背丈を遥かに超えるので全体も見られるように畑の中に櫓が組まれ展望台の
役目をしていた。期待した花に群がる昆虫たちとのコラボ写真は虫たちの姿が見えずに
駄目、若しかすると早朝とか夕刻が活動時間なのかも。或いは農薬?
花は全て東向き。和名の向日葵の由来にもなっている太陽の動きにつれてその方向を追うように
花が回るといわれて居るのは間違いと実感。
この動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな
若い時期だけであるそうだ。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、
朝には東を向いていたのが夕方には西を向くらしい。
夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが
大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。その過程で日中の西への動きが
だんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた
花は基本的に東を向いたままほとんど動かないのだ。
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纏めはデジブックで。
デジブック 『埴輪の里公園の向日葵』
日陰の無い場所での長居は年寄りには危険なのでポカリをがぶ飲みしつつも
早々に退散。
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