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少々、疲れはしたが遺跡の見物に入る。
古代において、信濃国と上野国を結ぶ道は「東山駅路」と云われているが
この道は時代によって何回か道筋が変わっている。
東山道から江戸時代初期に引き継がれた旧中山道が最も有名で坂本から
山手に入る道は既に観光ルート化して熊野神社に向かっており、其の脇に
東山道跡が付かず離れずに見え隠れしている。
碓氷峠から約3K南のこの碓氷バイパスが通過する峠は「入山峠」であり、
現在のR-18バイパスの他に、バイパス以前の峠道としての「旧町道」、
そして古来からの入山峠道である古道跡の三本が集まっている。
この「旧町道」とは下図のようにバイパスと入込みながら峠に向かっている
道で「「町道・入山峠線」と言われているものであるが、不思議な事に
一度もバイパスとは合流していない。直ぐ側を通ってもガードレールで
分離されている。(赤坂地区からは赤坂林道との記録を見たことがある)
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町道の入り口は「稲村山」に行かれる人は皆さん通過している、バイパスで
高速高架を過ぎて直ぐに左手に入り橋を渡って西に向かい久保・赤坂地域に
行く道。
かつて左折の目印だったカラオケ店は今は見当たらない。
赤坂以西では車両の通行が困難で、特に峠の手前は完全に通行止めに
なっている。
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古道の方は四世紀半ばから六世紀の頃に成立した峠道で、奈良・平安時代の
東山駅路より以前の古墳時代のものとされている。
其の根拠はここで古墳時代の「まつり」の道具が多数発見された事に拠る。
バイパス工事に先立ってS-30とS-40に発掘調査が行われ、「東山道碓氷坂」の
「祭祀遺跡」として注目された。
古代から日本人は高い山、大きな岩や樹木、川や湖沼に神霊を感じて祀る
習慣があり特に難所の峠越えには「峠の神」の怒りを畏れ、それを鎮める
為に宝物であつた玉類や剣・鏡などの石製模造品を神に捧げて旅の安全を
願ったとの事。そんな場所の跡が祭祀遺跡。
「峠」の語源が神に捧げる「手向け」から来ているという説も頷ける。
この峠は、昔から「数珠石峠」とも言われている。松井田町史によれば、
実は昭和の発掘で初めて遺物が発見されたのではなく、1831年頃の
「安中志」に「観音堂、馬頭観音石像なり、俗に数珠石観音という。
管石、其の傍らに砂の中を探し求むるに折々出づーー又剣の形の如きも
出ることあり。――かかる物、多く古墳より出れば其の類にや有けんーーー」
と既に有名になっている。
そして明治・大正・昭和を通じてこの遺跡出土の数珠石が馬のお守りとして
珍重されたため、地元民は競つて乱掘をしたというから、かなりの長期に
亘って荒らされて遺物は四散したと思われる。お守りとされた数珠石とは
石製模造品の臼玉だが形状が数珠玉に似ているだけで仏教には関係ないが、
大きさは6ミリ程度で真中に1.5ミリ位の穴が開いているそうである。
今、この古道は完全な廃道であり、町道との分かれや合流も素人目には
中々判らない様であるが、旧町道がバイパスに纏わり付いているの反して、
峠道は赤坂地区の先から峠に向って急峻を直登しているようだ。
入山峠においてはこの古道は町道やバイパスによって東西に分断されている。
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バイパスから長野方面に延びる古道の入り口は、さっきの桜堂山登山口と同じ。
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中に入ると両側に多くのピンクリボンがつけられて真っ直ぐに西へ伸びている。
幅広で整備の手が入っている感じ。この先では驚嘆すべき掘割状遺構が
見られるとの事。
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一方、バイパスの東側には矢張り似たようなリボン付きの出口。峠の頂点駐車
スペースから約200mの長野寄り。
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数メートルで旧町道にぶつかって分断される。
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そこからバイパス側を振り返るとこんな感じ。
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爺イの短足ではいっぱいいっぱいのガードレールを跨いで町道を渡ると
直ぐに石畳の道がある。この古道が近年まで使われていた証拠かもしれない。
だが、其の先は吃驚するような急降で登り返しのことを考えて探索は止め。
今のR-92が碓氷峠やこの入山峠の急峻をさけた和美峠からの信濃入りの道と
云われるのは尤もだと納得。
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石畳の左手の土手に何かの台石。位置は馬頭観音のあるとされる場所。
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付近を捜すと台石の裏に倒れた石像物。彫字は見えないが恐らく1818年銘と
される馬頭観音碑であろう。とすれば、江戸時代後期にも頻繁に人が通ったと
思われる。
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その反対側の高台に「古代祭祀遺跡地」とし説明版が立っているが、町道が
通行止めだから県境を縦走する人の他には中々人の目には触れないだろう。
バイパスからよく見えるところに案内板を出せばと思う。
松井田も安中市になった事だから、市の教育委員会辺りのご配慮を
願うものである。
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古代において、信濃国と上野国を結ぶ道は「東山駅路」と云われているが
この道は時代によって何回か道筋が変わっている。
東山道から江戸時代初期に引き継がれた旧中山道が最も有名で坂本から
山手に入る道は既に観光ルート化して熊野神社に向かっており、其の脇に
東山道跡が付かず離れずに見え隠れしている。
碓氷峠から約3K南のこの碓氷バイパスが通過する峠は「入山峠」であり、
現在のR-18バイパスの他に、バイパス以前の峠道としての「旧町道」、
そして古来からの入山峠道である古道跡の三本が集まっている。
この「旧町道」とは下図のようにバイパスと入込みながら峠に向かっている
道で「「町道・入山峠線」と言われているものであるが、不思議な事に
一度もバイパスとは合流していない。直ぐ側を通ってもガードレールで
分離されている。(赤坂地区からは赤坂林道との記録を見たことがある)
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町道の入り口は「稲村山」に行かれる人は皆さん通過している、バイパスで
高速高架を過ぎて直ぐに左手に入り橋を渡って西に向かい久保・赤坂地域に
行く道。
かつて左折の目印だったカラオケ店は今は見当たらない。
赤坂以西では車両の通行が困難で、特に峠の手前は完全に通行止めに
なっている。
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古道の方は四世紀半ばから六世紀の頃に成立した峠道で、奈良・平安時代の
東山駅路より以前の古墳時代のものとされている。
其の根拠はここで古墳時代の「まつり」の道具が多数発見された事に拠る。
バイパス工事に先立ってS-30とS-40に発掘調査が行われ、「東山道碓氷坂」の
「祭祀遺跡」として注目された。
古代から日本人は高い山、大きな岩や樹木、川や湖沼に神霊を感じて祀る
習慣があり特に難所の峠越えには「峠の神」の怒りを畏れ、それを鎮める
為に宝物であつた玉類や剣・鏡などの石製模造品を神に捧げて旅の安全を
願ったとの事。そんな場所の跡が祭祀遺跡。
「峠」の語源が神に捧げる「手向け」から来ているという説も頷ける。
この峠は、昔から「数珠石峠」とも言われている。松井田町史によれば、
実は昭和の発掘で初めて遺物が発見されたのではなく、1831年頃の
「安中志」に「観音堂、馬頭観音石像なり、俗に数珠石観音という。
管石、其の傍らに砂の中を探し求むるに折々出づーー又剣の形の如きも
出ることあり。――かかる物、多く古墳より出れば其の類にや有けんーーー」
と既に有名になっている。
そして明治・大正・昭和を通じてこの遺跡出土の数珠石が馬のお守りとして
珍重されたため、地元民は競つて乱掘をしたというから、かなりの長期に
亘って荒らされて遺物は四散したと思われる。お守りとされた数珠石とは
石製模造品の臼玉だが形状が数珠玉に似ているだけで仏教には関係ないが、
大きさは6ミリ程度で真中に1.5ミリ位の穴が開いているそうである。
今、この古道は完全な廃道であり、町道との分かれや合流も素人目には
中々判らない様であるが、旧町道がバイパスに纏わり付いているの反して、
峠道は赤坂地区の先から峠に向って急峻を直登しているようだ。
入山峠においてはこの古道は町道やバイパスによって東西に分断されている。
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バイパスから長野方面に延びる古道の入り口は、さっきの桜堂山登山口と同じ。
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中に入ると両側に多くのピンクリボンがつけられて真っ直ぐに西へ伸びている。
幅広で整備の手が入っている感じ。この先では驚嘆すべき掘割状遺構が
見られるとの事。
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一方、バイパスの東側には矢張り似たようなリボン付きの出口。峠の頂点駐車
スペースから約200mの長野寄り。
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数メートルで旧町道にぶつかって分断される。
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そこからバイパス側を振り返るとこんな感じ。
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爺イの短足ではいっぱいいっぱいのガードレールを跨いで町道を渡ると
直ぐに石畳の道がある。この古道が近年まで使われていた証拠かもしれない。
だが、其の先は吃驚するような急降で登り返しのことを考えて探索は止め。
今のR-92が碓氷峠やこの入山峠の急峻をさけた和美峠からの信濃入りの道と
云われるのは尤もだと納得。
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石畳の左手の土手に何かの台石。位置は馬頭観音のあるとされる場所。
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付近を捜すと台石の裏に倒れた石像物。彫字は見えないが恐らく1818年銘と
される馬頭観音碑であろう。とすれば、江戸時代後期にも頻繁に人が通ったと
思われる。
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その反対側の高台に「古代祭祀遺跡地」とし説明版が立っているが、町道が
通行止めだから県境を縦走する人の他には中々人の目には触れないだろう。
バイパスからよく見えるところに案内板を出せばと思う。
松井田も安中市になった事だから、市の教育委員会辺りのご配慮を
願うものである。
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