ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!
俺は遂に卒業論文を書き始めた。卒論の中には魔物が棲むの、頼れる仲間は誰一人いねー。大体そんな感じ、クソ漫画便り。ギャグマンガ日和の8巻が欲しいのだけど、もう出てるの?
まぁ、それはさておき、卒論は資料を活用して出典を書き記さねばならない。けれど、俺、資料2冊しか持ってないし。そういやWikipediaで万事OKじゃないと思ったものの、それ入れても参考文献が3つじゃ少なすぎるわけで・・・。実際書き始めたら、他人の文章に目を通すのが面倒で、つい自分の思った通りに書いているわけで。つまり普段のブログを利用した日記と何ら変わり無い。それで早くも嫌になってきて、もう何書いていいやらわからず・・・。あぁ、でもまだ下書きの段階だから、正式な卒業論文仕様になっていないし、章ごとの文章量をもっと増やしたいと思うし、肉厚にしないと2万字も書けないし。ワードが古過ぎるからメモ帳書きってのがアイデンティティかもしれない。
恥ずかしながら執筆途中の文章、載せてしまおうと思い立ち現在。最後の一文なんか俺っぽさが丸出しだったりして恥じらい隠せずだな。ん・・・?1日1000字じゃ間に合わなくないか!?ピーンチ!
はじめに
現在、日本では多くのお笑い芸人が、様々なメディアで活躍している。テレビやラジオは勿論のこと、インターネットコンテンツなどのウェブ上を席巻していることは言うまでもないだろう。それに伴い、人気のお笑い芸人を目当てに、人々は劇場を賑わす。舞台で漫才やコントなどの芸を披露することは、お笑い芸人にとって至極当然であるが、近年では積極的にテレビ等に出演することが人気獲得への一番の近道だと言える。だからといって、お笑い芸人は誰しも、生の舞台を疎かにすることはない。一度獲得した驚異的な人気も、翌年にはまるで何事も無かったかのように忘れ去られるのが、現代社会におけるお笑い芸人の厳しい現実であるためだ。急激に流行の最先端まで昇った時、彼らの多くは音楽業界を巻き込み、自分たちのCDなどをリリースする傾向にある。そうして多大な利益を得た結果、気付くと世間の興味は全く別へ向いているのだ。このように、台風と同じく一過性となってしまう事態には、どのような理由があるのだろうか。逆に、世間に飽きられることなく、絶大な人気を維持するために必要なものとは、いったい何だろうか。お笑い芸人を取巻く、多様な側面に触れつつ、このテーマについて考えていこうと思う。
1、お笑い芸人とは何か。
一言でお笑い芸人と言った時に、人によって受け取り方は様々である。漫才などの話芸を生業とする職業を思い浮かべる人もいれば、テレビ画面上で面白い発言をする人全般と括る人もいる。広義では、喜劇役者・コメディアン、落語・漫才・漫談・コント、声帯・形態模写・奇術、歌手などの芸域のどれかに属するものの中で、笑いをコンセプトにしている人がお笑い芸人と称されるようだ。しかし、お笑い芸人と芸人は、厳密に言えば全くの別物であるとする見方も少なくない。ただストイックに笑いを追及するのではなく、テレビで注目を浴びる、人気を得ることを目標としているお笑い芸人は、芸人ではなくお笑いタレントなのだと言われる。これは、確固たる地位を揺るぎ無いものとしたベテラン漫才師、中田カウス氏が同じように述べているため、その影響力の大きさゆえに、単なる少数意見の域に留まらなかったと考えられる。また、カウス氏は更に次のような意見も述べている。
「お笑いタレントと芸人は全然違うんです。タレントは趣味、芸人は道楽ですわ。極道というてもええ。道楽は家を潰してしまうし、極道は道を極める代わりに正道から外れてしまう。」(増田晶文著『吉本興業の正体』23ページ)
確かにその威厳や不可思議な雰囲気から、この弁は真に説得力を持っている。だが、飽きられない芸人という題目の基盤に、テレビ等のメディアで人気を獲得するといった行程を含んでいるため、ここでは広義に拠り、お笑い芸人と芸人について線引きはしないものとする。
2、お笑いとは何か。
基本的にお笑いとは、人に笑いを与えることだが、これは笑わせることであって、笑われることではない。日本のお笑いには、西洋にない大きな要素が存在する。それは、ツッコミという技術だ。大阪で始まった漫才という話芸には、ボケとツッコミが存在し、その絶妙な掛け合いによって爆笑を生み出すのだ。たとえばアメリカにおけるお笑いの主流、スタンダップ・コメディと呼ばれる漫談は、コメディアンがジョークを喋り、そして客が笑うだけである。そのジョークと笑いの間に、ツッコミというクッションは存在しない。日本では、ジョークに当たるものがボケと呼ばれる。そのボケ役が面白いボケを言った直後、ツッコミ役がすかさずツッコむことによって、ボケの面白さを増幅させるのだ。これが日本におけるお笑いの形であるため、観客はボケの後、ツッコミを待ってから笑う。ただし、ツッコミとは数学で言うところの×であるとも言えるため、面白いボケに対し下手なツッコミをしてしまえば、その笑いは著しく半減してしまう。逆に、ボケがさほど面白くはなかったとしても、ツッコミが上手ければ、笑いは何倍にも膨れ上がるのだ。しかしながら、この技術は決して簡単なものではない。お笑いの世界には、ツッコミはボケに三年遅れるという格言もあるくらいだ。つまりお笑いとは、相応の訓練を積んだ専門の人間が生み出す刹那の芸術であると考えられる。
画像は、俺がウルティマオンラインで使っていたキャラクター(NecroGoreGrinder)だよ。コンセプトは戦う肉屋さん。エプロンとジーンズに革手袋をゴムっぽく塗って使ってたよ。あと装備は頑なに斧。名前忘れたけど出血スキルがあるやつ。そんでオスタードに乗って、基本は鍛冶屋なんだけど、後半は伐採スキルも上げてたなぁ。あと素体はやっぱ、金髪、長髪、山羊髭。そして軽く青白い肌。フェルッカに家を建てたはいいけど、やたら狙われて嫌になったからトラメルに引越したんだよ。だって弱いんだもん彼。蟻と良い勝負。
俺は遂に卒業論文を書き始めた。卒論の中には魔物が棲むの、頼れる仲間は誰一人いねー。大体そんな感じ、クソ漫画便り。ギャグマンガ日和の8巻が欲しいのだけど、もう出てるの?
まぁ、それはさておき、卒論は資料を活用して出典を書き記さねばならない。けれど、俺、資料2冊しか持ってないし。そういやWikipediaで万事OKじゃないと思ったものの、それ入れても参考文献が3つじゃ少なすぎるわけで・・・。実際書き始めたら、他人の文章に目を通すのが面倒で、つい自分の思った通りに書いているわけで。つまり普段のブログを利用した日記と何ら変わり無い。それで早くも嫌になってきて、もう何書いていいやらわからず・・・。あぁ、でもまだ下書きの段階だから、正式な卒業論文仕様になっていないし、章ごとの文章量をもっと増やしたいと思うし、肉厚にしないと2万字も書けないし。ワードが古過ぎるからメモ帳書きってのがアイデンティティかもしれない。
恥ずかしながら執筆途中の文章、載せてしまおうと思い立ち現在。最後の一文なんか俺っぽさが丸出しだったりして恥じらい隠せずだな。ん・・・?1日1000字じゃ間に合わなくないか!?ピーンチ!
はじめに
現在、日本では多くのお笑い芸人が、様々なメディアで活躍している。テレビやラジオは勿論のこと、インターネットコンテンツなどのウェブ上を席巻していることは言うまでもないだろう。それに伴い、人気のお笑い芸人を目当てに、人々は劇場を賑わす。舞台で漫才やコントなどの芸を披露することは、お笑い芸人にとって至極当然であるが、近年では積極的にテレビ等に出演することが人気獲得への一番の近道だと言える。だからといって、お笑い芸人は誰しも、生の舞台を疎かにすることはない。一度獲得した驚異的な人気も、翌年にはまるで何事も無かったかのように忘れ去られるのが、現代社会におけるお笑い芸人の厳しい現実であるためだ。急激に流行の最先端まで昇った時、彼らの多くは音楽業界を巻き込み、自分たちのCDなどをリリースする傾向にある。そうして多大な利益を得た結果、気付くと世間の興味は全く別へ向いているのだ。このように、台風と同じく一過性となってしまう事態には、どのような理由があるのだろうか。逆に、世間に飽きられることなく、絶大な人気を維持するために必要なものとは、いったい何だろうか。お笑い芸人を取巻く、多様な側面に触れつつ、このテーマについて考えていこうと思う。
1、お笑い芸人とは何か。
一言でお笑い芸人と言った時に、人によって受け取り方は様々である。漫才などの話芸を生業とする職業を思い浮かべる人もいれば、テレビ画面上で面白い発言をする人全般と括る人もいる。広義では、喜劇役者・コメディアン、落語・漫才・漫談・コント、声帯・形態模写・奇術、歌手などの芸域のどれかに属するものの中で、笑いをコンセプトにしている人がお笑い芸人と称されるようだ。しかし、お笑い芸人と芸人は、厳密に言えば全くの別物であるとする見方も少なくない。ただストイックに笑いを追及するのではなく、テレビで注目を浴びる、人気を得ることを目標としているお笑い芸人は、芸人ではなくお笑いタレントなのだと言われる。これは、確固たる地位を揺るぎ無いものとしたベテラン漫才師、中田カウス氏が同じように述べているため、その影響力の大きさゆえに、単なる少数意見の域に留まらなかったと考えられる。また、カウス氏は更に次のような意見も述べている。
「お笑いタレントと芸人は全然違うんです。タレントは趣味、芸人は道楽ですわ。極道というてもええ。道楽は家を潰してしまうし、極道は道を極める代わりに正道から外れてしまう。」(増田晶文著『吉本興業の正体』23ページ)
確かにその威厳や不可思議な雰囲気から、この弁は真に説得力を持っている。だが、飽きられない芸人という題目の基盤に、テレビ等のメディアで人気を獲得するといった行程を含んでいるため、ここでは広義に拠り、お笑い芸人と芸人について線引きはしないものとする。
2、お笑いとは何か。
基本的にお笑いとは、人に笑いを与えることだが、これは笑わせることであって、笑われることではない。日本のお笑いには、西洋にない大きな要素が存在する。それは、ツッコミという技術だ。大阪で始まった漫才という話芸には、ボケとツッコミが存在し、その絶妙な掛け合いによって爆笑を生み出すのだ。たとえばアメリカにおけるお笑いの主流、スタンダップ・コメディと呼ばれる漫談は、コメディアンがジョークを喋り、そして客が笑うだけである。そのジョークと笑いの間に、ツッコミというクッションは存在しない。日本では、ジョークに当たるものがボケと呼ばれる。そのボケ役が面白いボケを言った直後、ツッコミ役がすかさずツッコむことによって、ボケの面白さを増幅させるのだ。これが日本におけるお笑いの形であるため、観客はボケの後、ツッコミを待ってから笑う。ただし、ツッコミとは数学で言うところの×であるとも言えるため、面白いボケに対し下手なツッコミをしてしまえば、その笑いは著しく半減してしまう。逆に、ボケがさほど面白くはなかったとしても、ツッコミが上手ければ、笑いは何倍にも膨れ上がるのだ。しかしながら、この技術は決して簡単なものではない。お笑いの世界には、ツッコミはボケに三年遅れるという格言もあるくらいだ。つまりお笑いとは、相応の訓練を積んだ専門の人間が生み出す刹那の芸術であると考えられる。
画像は、俺がウルティマオンラインで使っていたキャラクター(NecroGoreGrinder)だよ。コンセプトは戦う肉屋さん。エプロンとジーンズに革手袋をゴムっぽく塗って使ってたよ。あと装備は頑なに斧。名前忘れたけど出血スキルがあるやつ。そんでオスタードに乗って、基本は鍛冶屋なんだけど、後半は伐採スキルも上げてたなぁ。あと素体はやっぱ、金髪、長髪、山羊髭。そして軽く青白い肌。フェルッカに家を建てたはいいけど、やたら狙われて嫌になったからトラメルに引越したんだよ。だって弱いんだもん彼。蟻と良い勝負。
「これはお笑いをテーマとしたとてもとてもとても(×2222)素晴らしい卒論である 終」
で終わらせちゃうよ
楽しみにしてるんで更新頑張って下さいね!
僕のブログではターバン野口の折り方を紹介しています。
暇があったら是非どうぞ。
http://panicblog.blog109.fc2.com/?eid=9442
おはこんばんちわ
黒野です
私は適当にコメントする人です
汚いブログですがごゆるりとしてくださいね(´_ゝ`)
ターバン野口って何。
>>黒野
業者じゃないの?
あと外部のちゃんとあるよ。
>>Unknown
Nu
要するにマルチ
業者ではないけどどちらにせよだな