この世界は無常である。一瞬たりとも静止することはない。だから、特定の固定された形というものも存在しない。しかし言葉は世界を静止させる。ゆえに龍樹は言葉を否定するのである。
ショパンの美しい調べを聞いている時、当の音は既に過ぎ去っている。音が過ぎ去らない限りメロディーは立ち上がらないのである。
昨日は「差延(さえん)」という言葉について一日中考えていた。もともとこんな言葉はない。フランスの、哲学者ジャック・デリダによって考案された「語でも概念でもない」とされる造語だというが、造語されてしまえばそれは「概念」になってしまうが、デリダはそれを拒否しようとする。なかなか厄介な言葉である。このあたりが龍樹の言語に対する態度と似ている。
この「差延」というフィルターを通して、「今(現在)」という概念を反省してみると、次のようなことになる。( Wikipedia「差延」より引用 )
≪ 過去の痕跡との関係によってはじめて現在は意味を為すことができるのだが、痕跡の形で現在と関係している当の過去は、あくまでも痕跡の形でしか現在に含まれていないため現在にとっては不在であり、フッサールの受動的総合のように、現在にその一部として所有されているわけではない。こうして、現在はその自己充足性を失い、つねに欠如をはらんだ動的な時間性を帯びることとなる。現在は独立して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。≫
ここで、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という論文から時間について述べている部分を引用してみよう。
≪ 現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未いまだ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。≫
両者を比較すると著しく似通っていることがわかる。どうして今までこのことが指摘されていないのかが不思議な気がするが、当たり前と言えば当たり前だからかもしれない。ダイナミックな世界を言葉で表現しようとすると、我々の思考はどうしても引き裂かれるのである。
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