(前篇の続きです)
一般的には論理の集積であると思われていた科学法則が論理的な根拠をもたないということを、ヒュームが明らかにしてしまった。ところが、論理を何よりも重視するはずの哲学者が、論理的根拠をもたない物理法則を信じている。いわば、宗教を信じるごとく科学を信じているわけです。
その状況についてメイヤスーは、「彼らは暗黙の裡に確率論を適用している。」と指摘します。
≪理性は私たちに、原因も理由もなくビリヤードのボールが台の上で千もの(あるいはそれ以上の)しかたで現実に動き回る可能性を与えてくれる。≫ にもかかわらず、熟達したハスラーは思い通りにボールを操ることができるという現実があります。つまり、ボールは幾千もの可能的な軌道の中から物理法則にかなった唯一の軌道を常にたどっていると考えられます。それはあたかも、サイコロを千回ふって千回とも同じ目が出るようなものです。同じ目が千回続けて出たら、普通はサイコロに細工がしてあると考えるでしょう。同様に幾千もの可能的な軌道の内、ハスラーの思い通りにボールが動くのは確率的にはほぼありえないこと、つまり自然にはそうなるべき仕掛け(=物理法則)が存在する。カントもヒュームもそのように考えているとメイヤスーは言うのです。
ここでメイヤスーはこの場合の確率論的推論の無効を訴えます。確率論を適用するには可能な事象の全体化が必要なはずなのに、集合論の標準的な公理系においては可能的なものは全体化不可能である、と言うのです。確かにビリヤードの台のどの小さな部分をとっても無限個の点があり、その上をボールがランダムに動き回るとしたら、その可能性の数は非加算個の点の中から非加算個の点を選び出し、その選び出した点を任意の順に並べる場合の数の分だけあるということになり、それらのケースを枚挙することは到底不可能です。
このことが直ちに確率論的推論の無効につながるのかどうか私には判然としません。素人目には、ボールが唯一法則通りの軌道しか通らないことと、他の可能性の存在が確実でありさえすれば、確率論的推論は依然として有効であると素朴に言えるような気がします。本当に確率論的推論が不能だというためには、全体不可能ということではなく、他の可能性が実は見せかけの可能性に過ぎないことを証明する必要性があるはずです。しかし、メイヤスーは、「いずれにせよ、私たちは可能的なものが全体不可能であると考える手段をひとつ所有している。」ことで、神秘的な仕方で導き出した自然法則の必然性への信頼性を失効させることができると主張するのです。
≪可能的なものを非全体化する者は、法則の安定性を考えることはできるが、それを謎めいた物理的必然性によって二重化することはない。したがって、オッカムの剃刀が、現実的な必然性に対し適用されるのである。現実的な必然性は、世界を説明するに無益な「存在」となるのだから、それなしで済むし、これには神秘を廃止する以外の損害はないのだ≫ (P.180)
「現実的な必然性」をオッカムの剃刀でそぎ落とせば、起こった事実をただ事実としてだけ受け止めるということになる。ならば「法則の安定性」を考えることができるというのは矛盾しているように感じます。「現実的な必然性」がなくなるのは現実以外の可能的なものが存在しない場合のみであり、その場合には「法則」そのものもなくなると考えられます。
メイヤースはカントやヒュームを「確率論者」であると一方的に決めつけておいて、可能性の全体化を否定する立場からカントやヒュームを弾劾しているような気がします。可能性の全体化を否定した後でもメイヤースに法則の安定性を考えることができるのなら、カントやヒュームにも依然として「我々の認識の背後にある、宇宙を統べる『神秘的』な支配力」を措定する権利があるように考えられます。
しかしここはメイヤースの言い分を認めるとして、可能性の全体化を否定した場合、メイヤースにはどのような見通しが残されているのでしょうか。彼は果たして哲学に新しい地平を切り開くことができたのかどうか、正直に言うと私にはまったく理解できなかったというしかありません。184頁から3頁にわたって数学的言説の絶対性ということについて言及しているのですが、何度読み返しても老化の始まった私の頭で理解することはかないませんでした。
≪すなわち、思考の存在から独立であると想定される実在について、もはや論理的にだけでなく。数学的に復元することの絶対論敵射程を正当化できるようにならねばならない。カオス--それが、唯一の即自的なものである--が実際に生み出しうる可能的なものは、有限であれ無限であれいかなる数によっても計測されることはないということ、そして、このカオスの潜在性の超-莫大性が、眼に見える世界の完璧な安定性を可能にしているのだということを明らかにせねばならないだろう。≫ (P.185)
私には、カオスの潜在性の超-莫大性と眼に見える世界の完璧な安定性がどのように関係しているのかが全く分からない。なによりも、数学的手法でヒュームの問題を解決しようとしていること、そのこと自体が「理由」を模索していることにはならないだろうかと思ってしまうのです。次回(後編)は「祖先以前性」と言う概念について述べてみたいと考えています。
(後編に続く)
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