禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的世界観 無常と空 その2

2018-07-07 04:34:55 | 哲学

仏教では、この世界には固定的で不変のものはないと説く、なぜかと言うと現にそうだからである。無から有は生ぜず、また有が無となることもない。質料は互いに関係しあいながら動きとどまることはない。智者である釈尊が「エネルギー保存則」と現在言われているものを洞察したのである。「不生不滅。不増不減。」とはそのことである。

現にそうであることはそうであると受け止める、それが仏教の原理である。しかし、なぜ世界がこのようであるかということを知ることはできない。我々人間の経験能力を超えることについては言及しない、そのことを「無記」という。それも仏教の原理の一つである。

この世界をこのようにあらしめているものの名を「神」であると定義すれば、「神がこの世界を創った。」と言えるのではないか? それはその通りである。それだけのことであれば仏教的世界観と何も変わることはない。単に「神」という言葉を使うか使わないかと言うだけのことである。しかし、神というものを措定すると、どうしても人間的な価値観をその上に投影したくなるのが人間である。やがては旧約聖書のような物語が神に付随するようになる。だから、仏教では神という超越的な概念は取り入れない。

超越的な意思を認めない宇宙論は有神論に比べるとニヒルな印象は免れないが、とにかく仏教では恣意的なものの見方は徹底的に排除する。そして、ただ世界を虚心坦懐に見つめる姿勢を保ち続ける。無常と無記という発想はそこから生まれてくるのである。

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8 コメント

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Unknown (月のような者)
2018-07-08 12:39:07
ブッダの仏教ということで言えばこの宇宙をこうあらしめている「なにものか」という設定の仕方はしないでしょうね。主体的に統御するなにものかは設定しないと。仮にそれがあったとしてそれらしきものに出会っても、認識できるものは無常という前提なので、それは(無常外の)「本質」ではないという結論にしかならない訳ですね。だから仏教では宇宙をコントロールする超越者は「考察の対象外」ということですね。
前の記事に書いてあった日本式庭園や日本の伝統芸術全般に関しては西洋式のイデアとは違うかもしれないけど、この宇宙を統御しているなにものかを常に想定してきたと思っています。でもそれは基本的に形としては表現できない名付けもしないなにものかですね。
日本の芸術は厳密には仏教ではなく日本教みたいなものであり、人間を讃える、宇宙(の本質)を讃えるものなんですね。無為自然の手法によってなにものかと通じて事を行うと。
芸術ならそれでもいいけど、武道のような相対的な勝負の世界では江戸時代を通じて無為自然(実質一部の天才の養成)か、人為(全体の底上げ)か、のせめぎ合いが起きていたんですね(試合をすれば十中八九が竹刀打ちや乱捕りで人為的即物的兵器的な鍛え方をした者が勝利したと言っていい。天才は少ない)。
明治以降の和魂洋才やら丹田呼吸法ブームやらも似たような現象が「自然と人為の融和」という形で現れたものでしょうね。

仏教はそのどちらとも隔絶した、どちらも良いとか悪いとか評価には値しないというスタンスです。どっちもなるほど人間臭い願望であり未完成であり際限なしであり、苦しみからの解放には至らないということですね。
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Unknown (月のような者)
2018-07-13 19:40:25
3匹の猫が飛び出す
九時頃だったか
曖昧な現象なのか
オカルトなのか
バレンタインや正月…
正月の空気のように前向きで清涼な出来事だったと思いたい。
3匹の猫が僕の前で「ショー」のような動きをした時、僕の心の中もきれいな状態だったと、そんな記憶があります。
この世界がどういう仕組みになっているのかは本当に分からないんです。釈尊も、あなた達は業のことを考えると頭がおかしくなるから止めた方がいいと言っています。
西日本の豪雨災害を見ればそもそもこの宇宙が信用に値しないことが分かります。しかし善行には「それなりの反応」が返ってくることはこれからも変わらない法則だとも思っているのです。
むしゃくしゃしてくだらないことをやろうとすると邪魔が入ります。この前は三連発で邪魔が入りました。制止されるのです。そうとしか思えない。私のそういう「運の良さ」は仏教の徳なのかなとも思うし、一方で子供の頃からの馴染みの現象でもあるのです。
人に運の良し悪しがあるのはなぜか。分からない!
結局は私には仏道こそが理不尽も突き抜けていく道です。
宇宙、大宇宙、どんな意志が流れているのだろう…しかし、「無事」「正気」こそが幸福なのです。
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Unknown (月のような者)
2018-07-17 02:10:04
この前の夜に「入りやすい牛丼屋」を求めて結局一時間以上も自転車で外を徘徊してしまったのです。たまたま入り辛い店が多かったからです。しかし湿気交じりの少しひんやりした空気が気持ちよくてそれに長く浸っていたいという本音もあったのです。1920年頃の深夜にも同じような空気に触れてまどろんでいた人々がいたことが容易に想像できます。きっと私と同じようにここではないどこかを連想していたことでしょう。人間とは百年前も今も笑えるぐらい無防備で軽い存在なのではないでしょうか。
馬鹿は死ななきゃ治らない…ドミノ倒しの終局はまさに苦しさだけに塞がれていくようなものでしょうが、しかし死に行く私の瞬間ごとの姿もあくまで一時の脱け殻でありかさぶたなのです。そのように冷静で客観的でありたいものです。本当に死に突入する時は根本的に「本音」も変わるのでしょう。
仏教徒であれば生前においてしっかりと自分自身を見ることによって本音を「なくす」ことが目標というところでしょうね。
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Unknown (月のような者)
2018-07-26 21:29:01
花火が明るみにするのは、高い空はおろか、もっと遠くの宇宙にまで、膨大な数の人々の「自分」が投影され続けてきたという事実です。
昔の人が感じていた虚空が分かってしまう。石川啄木の才能といったものも分かってしまう。今もなお我々の無意識が宇宙空間の「構築」を進めているようです。

火に飛び込む虫みたいな本音もあれば、飛び込んではいけないという本音もあります。
仏教徒は地球温暖化の行く末に怯える人々の本音に向き合うべきです。
どんな地球の未来でも、あなたと未来の人が普通でいるところを見たいのが仏教徒の私の本音なんですと言うべきです。そんな普通も当てにはならないですが。当てにならない所に普通が成り立つのですから。
人類はすでにいくらでも地獄絵図を経験しています。そして人はいつか地獄行きになります。そのような恐れから逃れられる人はいないのが道理です。
私は仏教という希望なら知っていますがという所ですね。水の低きに流れるがごとくの当たり前のことですと。
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Unknown (月のような者)
2018-07-26 21:55:15
「仏教」なんてないですよと。
あるのはあなたの態度ですと。
花火は見送るものですよと。
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Unknown (月のような者)
2018-08-05 21:44:05
一神教は絶対になくならないんです。もしなくなっても必ず似たようなものが出てくると思います。これは人間が直面してきた現実の過酷さと、一神教的な発想の人間の本能との一致からも予想できることです。結局は日本人の精神構造もそれと似たようなものです。

結局世界の秩序を維持しているのはあらゆる宗教、社会的ポジションにおける「平和的性質」を持つ人々なのです。「普通」の平和的な価値観とは実際は危険な要素も土壌にしながら成立するものですが、時に完成度の高い慈悲心の持ち主を生み出すことも事実なのです。
仏教とはそれらの人々に対するさらなる救命マットなのです。神(通常の価値観の根源)を信じる人は「人間とは大したものだ」とも言うでしょう。しかし潜在的には無理がきて壊れる可能性に怯えます。
「まあ、あなたは壊れる」と言うのが仏教です。人間は壊れるから大したものではないけど、壊れるとちゃんと言える人間になれる可能性があなたにもあるから捨てたものではないとするのが仏教です。実はあなたが慈悲深いということは「壊れる」という事実を他人に物語ることができるということなのだと。あなたを支えている慈悲は壊れることと背中合わせなのだと。それを知ってくださいと。たとえあなたに価値観の変容が起きて仏教徒になっても慈悲深い人でいることができるから結局心配はいらないということです。
死にゆく者にとって必要なのはただ作為のない慈悲なのだから、あなたは続けて慈悲深い人であれと。
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Unknown (月のような者)
2018-08-09 22:24:16
人間の主題歌は「もしもピアノが弾けたなら」でしょうね。

選択肢は悟りか地獄かしかないですよ。六道輪廻の中にいる限りはいつか地獄行きです。梵天界なら大丈夫でしょうか。天界に生まれた場合は正に天国ゆえに死ぬ時は人間界以上の苦しみを味わうらしいですよ。次はどこに行くかも分からないと。自分一人の苦しみだけではなく他人も存在するんですからね。凍り付くしかないですよ。
でも凍り付くのは人間として生きている間だけです。だから我々は人間性をいかに全うするかを考えればいいんです。何事も可能な限り違和感のない方を選んで行動すればいいのではないでしょうか。それ以外に最大限幸福な死後に備える方法なんてないんですから。俺は善人なんだと宣言するよりも謙虚でいればいいと思います。
人を殺すのは論外ですが、今まで殺した人がどれだけいたと思うんだという話になります。昔の日本軍で殺せと言われてどうやって逃げるんですかと。現代人だってたやすく東洋鬼になりますよと。
現代の方が生活が楽な分悪人になってしまう人は昔よりは少ないかもしれません。でも地球を傷付ける生活をしているから、ごっそり地獄に行くことに変わりはないかもしれません。未来の人に不幸を押し付けてもいるのです。しかしボロボロでも善を希求するのが人間です。精神の安定を求めるがゆえです。たぶんエコに目覚めるよりも謙虚な人になる方が高等なのです。
まあ仏教においては人間のやることは何も「いい」ということはないのですが。悟るか壊れるかです。しかし核爆弾よりも音楽の方がいいに決まっていると気付かせる教育は放棄しない方がいいです。
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Unknown (月のような者)
2018-08-11 13:47:07
六道輪廻は別に七道でも八道でもいいわけです。要するに人間が人間のままで救われたいという願望は必ず論理的に破綻するということなのですから。
世界最高最強の聖人(超人)である肥田春充氏が人類の未来を憂いて断食死してしまったのです。「人間は素晴らしい」の行き着く先は絶望なのです。
だけど人間の本当の価値というものは絶望して地球が事実上粉砕されてから見えてくるのです。
宇宙の破綻を見通すことができるのは人間しかいません。未来どころか過去にも人間には絶望しかなかったのですが、しかし本当の絶望なるものは存在するのでしょうか?ジャンクでゴミで醜い我々人間の日常空間だからこそ、絶望も知ることになるけど、宇宙に風穴を開けることができる状態になっていることにも気付けるのです。
その事実を見据える時、人間は宇宙で最も輝く存在になるのです。
この宇宙自体の潜在的願望とは、ただ破綻し尽くすこと、自分の悲劇性が破綻することを知ることなのですから。
肥田春充がゴータマ・ブッダを超えるということはないのです。
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