先日の記事、【南師曰く、『仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である』】 において、私は「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたのであるが、それに対しあるところから、「あなたは自分に都合のいいところだけ信じるのか?」という問いかけを頂いた。
「都合のいいところだけ」という言葉に多少引っ掛かるが、まあ大体その通りである。端的に言って、誰もがそうしている。「それは間違っている」と思いながら信じることなど誰にもできそうにない。仏教で重要な概念は「無常、無我、空、無記」である。その原理原則は仏典よりも優先されるべきであると私は考える。それに従えば輪廻思想は受け入れがたい、ただそれだけのことである。
仏典の全てをそのまま信じることなど到底できない、取捨選択があるから様々な宗派が生まれるわけである。日蓮ならば法華経、浄土系ならば浄土三部経を重要視するが、それ以外の経典はさほど重要視しない。親鸞聖人は自分の考えに沿って経典の(学者によれば、意図的な)誤読まで行っているとされている。
だからと言って、「親鸞の教えは仏教ではない」というようなことは言われない。彼ほど「無常、無我、空、無記」を理解している人はそういないからである。
※コメントにはgooユーザーIDを記入して下さるようお願いいたします。
コメントを有難うございます。