前回記事では、この世界の成り立ちについての根源を問うたとしても、それは意味のないことであるというようなことを述べた。それはそのまま、私達がこの世界に生まれついたということ自体が無意味であるということである。私達はなぜ生まれてきたのだなどと問うてもその答えはない。もうすでに私たちは生まれてしまっている、というその事実を受け止めることから始めなくてはならないのである。
我々が存在することの理由などない。あるはずのないものを求めることを無明というのである。現前している世界はそのまま受け止めるしかない事実である。そのことを腹の底から理解するということが「あるがまま」の世界を受け入れるということである。なんの不思議もない実は当たり前のことだが、それが実は一番重要なことでもある。そのことに気がつけば、無明と言う実存の不安はネガがポジに反転するがごとく妙へと転移するのである。「柳緑花紅」、「眼横鼻直」などと表現するが、この当たり前の世界が素晴らしいということになる。野に咲いた一輪のすみれに感涙した明恵上人はこの世界の妙に感動したのだ。
この世界があるということ、私達が生まれてきたということには意味がない。しかし、それは私たちの人生が無意味であることを意味しない。無意味な「自分探し」などにとらわれることなく、現実をしっかり受け止めて生きていくなら、おのずと有意義な道が開かれてくるということではなかろうか。
もともと無意味・無根拠ですから、どのような解釈も可能ですが、必然性というものもないのですから、どのような解釈も恣意的で偏ったものとならざるを得ないでしょう。
ここは、やはり釈尊の示された『無記』とするのが妥当である、と私は考えます。
>デフォルトではわざと意味がないように‥‥
「わざと」などと表現すると、何か大いなる意思が働いているかのようですが、この宇宙にそのような意志が存在しないのではないでしょうか。