哲学をやるというような人は大体において頭のいい人が多い。「世界で一番自分が頭が良い」と考えている人も少なくないのではないかと、私は想像している。なぜそんなことが言えるのかと言うと、(まことに恥ずかしいことだが)私自身がそういう人間だったからである。傲慢と言えば実に傲慢と言うしかない。もちろんそんなことは錯覚である。「世界で一番頭が良い人」は世界に一人しかいないのだから、宝くじで一億円当たる確率よりもはるかにありえないことに違いない。
社会的には落ちこぼれと言ってもおかしくないほど愚かな私でさえ、そのような傲慢な錯覚に陥るのはなぜだろうか? おそらく、人は自分が考え得ることしか考えられないからだと思う。つまり、自分が考え得る領域の外に出ることができない。あまりに当たり前すぎて、なんのことを言っているのか意味がわかりにくいと思うが、これは重要なことで肝に銘じておく必要がある。 加えて、これも実に当たり前のことであるが、他人の考えていることは外から見て分からない。つまり、他人の言うことの内で自分の理解できるのは、やはり自分が考え得ることだけなのである。所詮人は自分の物差しでしか物事を推し量れないのである。それで、つい、「世界中の誰もが考えたことのないことを、今自分が考えている」というような妄想を抱いてしまうのだ。
しかし、少しでも本格的な哲学に足を踏み入れれば、そのような妄想は一挙に吹き飛ばされてしまう。「世界中の誰もが考えたことのないこと」と思っていたようなことは、とっくに誰かが考えていたというより、実は哲学の入り口に過ぎないようなレベルの低い思いつきでしかなかったということに気づかされるのだ。議論はもっと深くて洗練された場で展開されているのである。自分では頭が良いつもりでも、勉強すればするほど上には上があることを思い知らされてしまう。したがって、知的優越感というものが哲学の動機であり続けるということはあり得ない。ものを知れば、自分の知見の狭さを知らされるのが道理である。哲学とまともに向かい合ってればどうしても自己否定と態度変更を迫られることが度々起こる。謙虚にならざるをえないのである。
だから、きちんと哲学をしている人はそれなりに謙虚だということができる。「それなりに」というのは、外見的には傲慢に見える人もいるからである。カント研究で有名な中島義道先生などはなかなか狷介な人で、駅のアナウンスがうるさいと駅員さんに噛みついたり、屁理屈をこねて出版社の担当者をてこずらせたりするが、ある意味それも彼自身のまじめさからくるものと言えなくもない。中島先生の場合はそういう世間への疎さもあるが、少なくとも学問に対する謙虚さと真摯さは人一倍あり、憎めない側面も持ち合わせている。