前回記事で「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたら、「此れはしかし同時に、仏教(仏説)であっても自分が共感する部分だけを受け容れたら良いといっているのと同じ事の様にみえます。」という方がおられたので、少し言い訳しておきたいと思います。
前にも述べたように、仏典は多くの人の手によるもので仔細に見れば矛盾もあります。しかし、仏教は学問ではなく宗教なのだから、人それぞれの解釈があってどれが正しいとかいう断定はするべきではない、ということは理解できます。そういう意味で前回記事の「仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」とまで断定するのは言い過ぎだったかもしれません。南直哉師も「輪廻説は間違っている」とは言っていません、「輪廻説は仏教には必要ない」と言っているだけです。一切皆空を標榜する仏弟子は断定を避けねばならないので、そういう表現になるのでしょう。
しかし、アマチュア哲学者たる私は、輪廻説のネガティブさというものをもう少し強く訴えたいと思います。
輪廻説は生まれる前と死んだ後のことについて言及しているわけですから、これはもうはっきりと無記ということと背反しています。早く言えば「いったい誰がそんなこと分かるの?」ということです。それと、南直哉師は「輪廻説は仏教には必要ない」といいますが、私は「輪廻説を信じられる人に仏教は必要ない」と言いたいと思います。
仏教の動機というのは無常ということしかないわけです。無常というのは一切のものが常に変化しているという意味ですが、文学的には「人の世がはかないこと」と解釈されています。そのような詠嘆的なとらえ方も間違ってはいないと思いますが、実存的な視点からとらえるとこれはものすごく恐ろしい意味をもちます。すべては偶然的で無根拠であることから、自分が今ここでこのように存在していることの意味がわからなくなる。禅宗でいうところの大疑団です。そのような切羽詰まった状況があるから仏教が必要になってくるわけです。
輪廻説を信じることができる人は、おそらく神様を信じることもできるし、天国を信じることもできる人だと思います。そういう人には仏教は必要ないでしょう。権威がありそうな人に「あなたは必ず天国に行けます。」と言ってもらうのが一番手っ取り早いような気がするのです。
それと、私が輪廻説が嫌なのには理由があります。宿業論と一体になって詐話師のネタになりやすいというということです。なんの罪とがもない人に、前世の業とかなんとか云って余計な罪悪感を負わせる、というのはかなり理不尽なことと思うのです。
尾瀬ヶ原
意義というか仏教の原理原則であり、人間のリアルな実相であり、人間性を尊重するための道筋でもあります。
私が仏教を語り切れると言うつもりはありませんが、仏教の宇宙大の快挙とは、我々の目に映るごまかしのない現実と我々の完璧な救いがなんと一致することを証明した、という所にあると思います。
一言で言うと人間は愚かなのです。どれくらい愚かかと言うと、際限なく愚かなのです。
原則として輪廻論を乗り越えられないのです。乗り越えていそうな人は見たことがありません。死ぬ時になって突然何も希望しない無の状態になれるという道理はないのです。死という段階を意識している時点で無理だと思います。そもそも業の力で生きていて、業の力で意識「させられて」いるのです。業の力を宇宙の力と未分化的に解釈すれば、元々宇宙自体が愚かということになるのです。
しかし人間性というものは「愚かでもいい」という退廃を許さないものだと思います。釈尊が発見した突破口(涅槃)とはバラモン教とはやはり違うもので、素晴らしい涅槃に達したいと思っている限りは絶対に達しないものなのです。涅槃と不釣り合いな全身くまなく汚い自分を見続けるべきなのです。我々には汚いものしか見えないはずです。誰一人として「あなたはそんな人だと思わなかった」という言葉から逃げられないのです。
「そんな人」がいない、退廃のない世界が涅槃です。
それはどこにありますか。絶望的な自分が駄目押しで「自分ですらない」ことに気付いた瞬間、今涅槃があった、と気付くというものでしょう。私に悟りと呼べる瞬間があったかどうかは分かりません。普通にお酒を飲めてしまいますから(笑)
無常・無我・苦は際限のない輪廻、愚かさと同義です。
自分がないから際限なく愚かになるのです。愚かさに耐えられなくなって、そして自分の本音も分からなくなった時、しかし自分がないからこそ涅槃を発見できると。
汚いもの(自分・輪廻・退廃)と涅槃は混じらない。
ないもの(涅槃)は、ないもの(自分)の手を取る。
ということだと思います。
輪廻は生きているこの瞬間にも起きているということですね。前の瞬間と今の瞬間は関係しているけど直接的な繋がりを証明することはできないのです。前後はそっくりだけど根本的に断絶していると言ってもいいのではないでしょうか。にも係わらず、子供の時も今現在も自分の頭を叩けば自分が痛いと思っているのです。記憶という機能があるからそれが分かるのですが、記憶のあるなしとどっちも痛いという事実は関係ありません。我々はどっちも痛いと知っているからその事実を認めればいいだけだと思います。結局痛さを引き受けているのはどっちも自分なのです。昔と今の自分は明らかに別人で断絶しているけど、やっぱり自分なのです。我々は「認識現象」そのものではないでしょうか。我々の個体の内実がどうであれ、今現在もそうであるように結局一つの認識主体として存在したがっているし、とりあえずそれは怪しげな形だけど実現しているのです。
それを考えれば死後の転生なんて不思議なことではありません。我々普通人が習慣にしている「存在」に対する視点がちょっと替われば、ごくありふれた現象という解釈にしかならないのです。「輪廻転生」は我々の前に簡単に立ちふさがってきます。
死後に対する無記とは、阿羅漢が死後に存在するか否かに関することです。無常・無我・苦(空)は一つのセットですが、無記はそこに同次元の概念として並べるべきものではないのです。
無常無我苦から脱して涅槃に至るのが仏教ですが、涅槃は通常の意味においては「存在」しません。今生来世を問わない無常無我苦である「輪廻」と対峙することによる自らの変化においてのみ達することができる境地なのです。
宇宙には物質と認識しか存在しません。そして我々がその認識主体であることに驚くのです。「人間」として存在しているということはこの宇宙が極限の窒息材料としてのしかかってくる場合ありということですが、二千六百年前にある偉大な方が「モラル」を宇宙に勝利させることに成功しました。人は生と死の前に紀元前とほぼ変わっておらず、しかし釈尊が用意してくれた空気穴を手にしていることにおいて奇跡的な大幸運者なのです。