ペトロ七種照夫神父様の通夜にあたって
2017年5月25日(木) 於 カトリック五反城教会
ここにお集まりの皆様お一人お一人に、七種神父様との思い出がおありのことと思いますが、もしかしたらその多くは「よく怒られた」とか「こわかった」というようなものなのかもしれません。私が4年前に協力司祭ということで五反城に来るようになった時に、ある方から「今はだいぶ丸くなったけど、昔はもっとすごかったですよ」と言ってくださる方がおられました。ただ私も、そのあたりの時のことをまったく知らないわけではありません。
わたしが七種神父様と初めて出会ったのは、ちょうど26年前、16歳の時でした。神父様が長崎の聖ルドヴィコ神学院の院長として着任されたことで、わたしは神父様と2年間生活を共にすることになりました。教会司牧の現場を離れて神学生の養成に携わることになったこと、また社会福祉活動に携わってこられた名古屋を離れて長崎で生活することになったことに対して、気持ちの整理がつけられずにいるかのような思いが時折言葉の中ににじみ出ていることもありました。そのような中でも、神学生の指導にまさに体当たりで取り組んでくださったのですが、その有り様は皆様がご存知の神父様そのものでした。
しかし、わたしが4年前に協力司祭として五反城教会に来た時からの神父様の印象は、これまでとは大きく違ったものでした。もしかしたらある人にとってはさほど変わらないのかもしれません。あるいは、以前の私が単に気づかなかっただけなのかもしれません。とにかく、この4年間、特に主任司祭として五反城教会に着任して神父様と共に過ごした3年間の中で思ったことを皆さんに分かち合いたいと思います。
1.謙遜
神父様の10年にわたる五反城教会主任の時代を経て、わたしが五反城教会の主任となったのは3年前、2014年の4月でした。その前は神言神学院で志願者の指導司祭をしていたこともあり、その年の復活祭を待たずに任命通り4月1日から五反城で生活をすることになりました。ただ、神父様の10年にわたる五反城での司牧への感謝はちゃんとした形で行いたいと思い、復活祭のパーティーの時にそのようなセレモニーを行おうと考えました。そこで神父様に「確かに任命はすでに私が主任司祭なのでしょうが、復活祭までは神父様が主任司祭のつもりでいてください」とお願いいたしました。
そのような中で迎えた聖週間。神父様には聖金曜日の典礼をお願いしました。キリストの受難の朗読は役割を分担して朗読が行われますが、当時はマイクのケーブルが今のように長くなく、マイクが朗読台まで届かなかったこともあり、3人が別々の場所に立って朗読するように段取りを組んでいました。しかしその時に神父様は大きな声で「このようなやり方は典礼的ではない。こちらに来てください」とおっしゃられたのです。
そしてミサが終わった後、神父様はとても申し訳なさそうな顔をして、「私は主任司祭ではないのに、主任司祭のように振舞ってしまった」とすごく反省されていたのです。その時から神父様は、典礼や教会の様々なことに対して決して「こうしてください」「ああしてください」は言われなくなりました。
主日のミサについて、私は「神父様のお話を楽しみにしている人もいるので、月に2回でも3回でも4回でもミサを司式してお説教を聞かせてください」と常々言っていました。それに対して神父様は「一週おきにやるとわたしが主任で神父様が協力司祭の時と変わらないので、自分があたかも主任のような立場で信徒に話をするかもしれない。月に1回で十分です」とお話しされ、さらに「平日のミサも神父様が全部やってください」とおっしゃられました。そして神父様は、それらの席に必ず一緒に座ってくださいました。
これまで主任として働いていた場所で続けて住み続けることは、決していいことばかりではありません。むしろ辛いことが沢山あります。自分のやってきたことが時としてひっくり返され、否定されてしまうことを目の当たりにするからです。自分なりの意味があってこうしてきたということがあるにもかかわらず、神父様は決してわたしのやり方に対して決して意見を言われることはありませんでした。私を信頼して、自分とは異なるやり方であっても決してご自分の意見を主張されなかった神父様の思いと苦しみは、計り知ることができません。そのような思いに応えて、わたしはできるだけ神父様がやってこられたことを大切にしながら、五反城の小教区をよくしていくにはどうしたらよいかということを考えて、この3年間を過ごしてきました。
2.奉仕
神父様はわたしに自由にやらせてくださったのみならず、そのために、つまりわたしを支えるために、自分ができることを一生懸命やってくださいました。その大きなものが、「食事を作ること」でした。
そもそも神父様が自炊を本格的に始めるきっかけは、数年前に患った脳梗塞のためでした。幸い早い段階で見つけることができ、これといった後遺症が残ることもなく、その後も元気に過ごすことができたのですが、お医者さんから「あなたは神父さんでしょう。そんな食生活をしているのですか」などと言われてプライドをくすぐられたのでしょう、「じゃあやってやろう」ということで、お医者さんが薦める野菜中心の食生活を始めることにしたのだと思います。
わたしが五反城に着任した時、お医者さんの勧める食生活を続ける神父様に、わたしはどのようにして食事を準備すればいいのだろうと心配していたのですが、神父様は私にこう言ってくださいました。「私は神父様が作る食事は食べられないと思います。おいしい、おいしくないという話ではなく、油の使い方とか、使っている材料などで、お医者さんからだめだと言われているものがあるとわたしは食べられない。わたしの食事は自分で作るから心配しないでください。ただ、神父様さえ良ければ、わたしは神父様の分も作ります。一緒にいただきましょう」と。これよしとわたしは「ぜひお願いします」と言って、神父様に食事を準備してもらうことにしました。
わたしたち二人は基本的に、朝晩はいつも一緒に食事をしました。その中で神父様のこれまでのいろいろな思い出話もたくさんしました。叙階してから最初の任命地・吉祥寺でのこと。ボーイスカウト活動の中で、子供たちの口車に乗って湖に飛び込み、そのような出来事を通して関係がぐっと深まったこと。学生紛争時代のさ中、大学のカトリック研究会で指導をしていた神父様がそれらの活動の余波を受け大変だったこと。南山教会の助任から急に主任になることが決まり、サバティカルをとって色々な予定を立てていた神父様がふてくされているところを信徒の方々が助けてくれたこと。知立教会のこじんまりとした共同体で過ごした日曜日の楽しい時間。長崎生まれの神父様が秋田教会に赴任することになり、雪かきの苦労から腰を痛めたことや、信徒の方がたと最初はなかなか打ち解けることができなかったけれど最後には秋田にずっといたいと思うほどになったこと。もちろん、わたしがともに過ごした長崎のルドヴィコ小神学院のことや、五反城教会のこともたくさん出てきました。どれも楽しいお話でした。
神父様は食事のみならず、料理そのものにも楽しみを見出しておられました。「残り少ない時間、食べられる量は限られているんだから、美味しくないものは食べたくない」と言って、毎日違ったものをおいしく料理することに力を注いでおられました。名古屋駅の東急ハンズに行って使いやすい鍋や便利な調理用具を買ってきたり、高島屋の地下でテレビで紹介されていた珍しい食材や調味料を買ってきたりしました。さらには、ご自身で料理ノートを作り、レシピがその数60を超え、「これだけあれば毎日違ったものを飽きることなくおいしくいただける」と得意げに話してくださいました。
だけど、それは決してご自身の健康、ご自身の楽しい食生活のためだけではなく、わたしのためだったのです。自分の役割は主任司祭を支えることだと思っておられ、わたしのためにおいしい食事を準備してくださっていたのです。1月の終わりか2月の初め、今から考えればその時から腸閉塞の影響があったわけですが、食べ物をあまり食べられなくなり、台所に立って調理する元気が無くなっていた時、わたしの食事ということで、台所のテーブルに巻き寿司と惣菜が置いてありました。隣のスーパーから買ってきたものでした。神父様は「今日はこのようなものしか準備できなくて、申し訳ない」と言われました。そのくらいならわたしが買ってきてもさほど苦でもないことなのに、神父様は体調がすぐれない中でわたしのために買い物に行き、食事を準備してくださったのです。神父様の手作りのおいしい食事ではない、スーパーで売られている食べ物を前にして、わたしはこれまで神父様がわたしのために準備してくださった数々のメニューを思い起こしました。そしてその時になって神父様のわたしに対する奉仕の思いに気がつかされ、思わず涙が溢れそうになりました。
3.感謝
五反城の長年の懸案、それは新しい司祭館・信徒会館の建設でした。神父様が五反城に着任して間もなく、男性部の旅行でそのことが大いに盛り上がり、実現のために動き出すことになりました。しかしながら資金面の問題もさることながら、いろいろな人の意見がなかなかまとまらず、建設の計画は一向に進みません。そうこうしているうちに時間だけが過ぎ、教会の創立50年に合わせてなどといった目標はどんどん過ぎて行き、神父様の引退までに完成はおろか、計画にゴーサインを出すこともできませんでした。
私が五反城に着任してすぐに取り組んだのがこの建設の案件ですが、いいものを建てるというより、とにかく建てることに全力を尽くしました。引退された神父様を1日でも早く、少しでも長く新しい建物で生活していただきたかったのです。計画とそのための積み立ての開始からあまりにも時間が経ってしまっていたということもありました。幸いにも、教会に来た人が気軽に立ち寄れるホールが欲しいという意見は信徒共通の思いであると感じたわたしは、ホールを中心にした新しい建物を建て、広さや機能が不足している他の部屋に関しては、幸いにも壊さなくてよかった隣の文化センターの建物を活用しながら利用する考え方で計画を進めることにしました。資金的な幾つかの幸運にも恵まれ、ちょうど2年前の4月になんとか完成させることができました。
引退から1年以上が過ぎ、七種神父様はようやく新しい建物で生活を始めることができたのですが、おそらくそれは神父様が当初から思い描いていた理想の司祭館ではなかったことと思います。とにかく1日でも早く引退した神父様に新しい司祭館に住んでいただきたいと思っていたので、それが実現できたのは良かったのですが、どうしてもそのような申し訳なさが消えません。ある日神父様に「神父様が思い描いていた司祭館とは違うかもしれません。このような建物になってしまい、すみません」とお話しすると、神父様は「とんでもない。とても住みやすい。引退後の生活を私はルンルン気分で過ごしています」と答えてくださいました。また、昨年大腸を患いストーマを装着することになってから、トイレの使い勝手が悪いだろうと思い、「もし必要であれば改造しますけどいかがですか」とお聞きしたところ、「とんでもない。とても使いやすいです」と答えてくださいました。そして、「こんな立派な建物をわたしの代わりに建ててくれて、本当に感謝しています」と言ってくださいました。不満を漏らさないばかりか、感謝の言葉をも述べてくださる神父様には、本当に頭が下がる思いでした。
新しく完成した司祭館・信徒会館の1階で、主日のミサの後神父様はよく信徒の方々とおしゃべりをしたりコーヒーを飲んだりして、楽しい時間を過ごしていました。今となっては分からないのですが、主日のミサの後のわたしはいつもなぜか忙しくウロウロしていました。そのような中でわたしは信徒の方々と楽しい時間を過ごす神父様のことを羨ましく見ていました。それはわたしが考えていた教会の理想の姿でもありました。神父様がそのように、私たちに与えられた司祭館・信徒会館での生活を感謝のうちに楽しく送られていたその姿は、今も忘れることができません。
神父様が私を受け入れてくださったからこそ、一緒にいてくださったからこそ、支えてくださったからこそ、神父様とともに過ごした私の五反城での3年間は本当に素晴らしいものになりました。そのような中、予想もしていなかったわたしの人事異動、そして思いがけない神父様の入院と末期癌による闘病生活によって、しばらくは続くと信じて疑わなかった五反城教会でのわたしと神父様との生活は、この3月をもって突如終わりを迎えました。
南山教会の主任司祭の任命を受けたことを神父様に伝えたとき、新たな主任司祭との生活を1から作り上げなければならない不安がある中で、そのような不安を決して口にすることはなく、わたしが南山教会の主任司祭になることを自分のことのように心から喜んでくださいました。自らが若干39歳で主任となった南山教会、大きな教会であるゆえ大変さもたくさんあることをご存じでありながら、受ける喜びも同じだけ大きいことを知っておられる神父様だからこそ、五反城を離れる寂しさと大きな教会の中に入っていくことの不安の中にあるわたしに対して、わたしを励ますかのように「おめでとう、よかったね」と言ってくださったのだと思います。
不安や不満がある中でもそれらをしっかりと見つめ、自分の生き方を神に聞き、「従順」「奉仕」「感謝」のうちに生きることによって、神の愛の喜びのうちに生きておられた神父様でした。神父様がわたしたちに見せてくださった「謙遜」「奉仕」「感謝」のうちに生きるその姿を決して忘れることなく、わたしたちはこれからの信仰生活、宣教司牧に励んでいきたいと思います。
南山教会主任司祭 新立大輔
(前 五反城教会主任司祭)