ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

東日本大震災 あれからひと月余

2011-04-15 21:26:47 | 日々の出来事
先月の11日、私はあの大震災の時の料理教室に行き、料理をしていたのでした。 今月の稽古日は今日でした。あの時以来…

生徒仲間は帰宅難民体験者、千葉の液状化にあった地で被災された方も数人。皆、無事を確かめてホッとしたひと時を過ごしたけれど、このひと月の間に何回かあの日のことを思い出すと、何事もなかったように余震に驚きながらも教室を続けていて、それは正解だったのかなと思うことがあります。今日お会いした方たちは一人で家にいる時だっらきっともっと心細かったから、皆と一緒に居られて本当に良かったという方が多かったですが。
この数年、教室では前月元気でさようならと別れたら、翌月寂しいことに訃報に接することが続いた時期があったので、当たり前の毎日が決して当たり前ではないことを痛感する場でもあるのだなぁと思う次第。

被災された方達も
首相をはじめとする関わっている政治家も
官僚として下支えしている国家公務員も自治体の職員も
原発の東電も協力会社や下請けやメーカーの人たち現場の人たちも
はじめて起きている色々なことに、一つ一つ驚き、戸惑いながら
必死でこのひと月過ごしてきたと思うのです。
足りないことは探せばいくらでもあります。
反省することだっていくらでもあると思うのです。

でも、今、目の前に起きていることに初めて対峙して、真摯に生きて働いていることをもっと受け止めることができないのでしょうか。
この大震災のこれからが大切な時に、知恵と力、譲り合い、支え合う力、どれだけそれぞれの心とありようを理解しあえるかが、みんなに問われている大切な機会であり、いのちを大切に送り、いのちを育み、繋げていくそのことに集結して英知を出し合う時なのに。

原発だって、安全だという神話から、危機に対してどんな対処の仕方ができるかという発想の転換が求められていると思うのです。 原発を推進して大量電気を使う経済、文化の発展、生活の利便性を良しとしていたのは、東電だけではなく(勿論、ほかの電力会社だけでもなく)、政府だけでもなく、経済界だけでもなく、どのレベルにおいても同じくそれぞれの責任を見つめながら、粛々とできることを実務的にしながら、意識改革はゆっくりでもいいから確実にしていく時なのではないのかなぁと思うのです。
政局の具にしてはいけない。日本人の品格(って何?かはまた論を要しますが)が下がるよ、って思いますし、退陣の時期はいずれきます、来ると思います。それは東電の社長さんも菅さんも思っているでしょう!ね。