弱さとプライド6

2009-12-08 20:49:20 | 正しく愛す
「他人を見下す若者たち」講談社現代新書 速水敏彦著

・社会的迷惑行為が増える理由
・・・社会的迷惑行為にいたる若者たちが、社会規範に対して無知であるとは思われない。社会規範を知っているかいないかの違いではなく、社会規範を重視するか軽視するかの違いであるといえる。・・・

もちろん、社会規範を軽視するのは若者に限らないわけですが、「自由を履き違える」という社会教育の問題でもあるかもしれない。
社会教育というのは、学校や家庭で特定の教師と生徒がいるという図ではなく、
多くの利害関係がある社会全体が、各々の利害を最大限尊重するための最低限の規律を社会は作ろうとするはずで、その中で個人が自由を行使しようとするときに直面する学習である。


個人の自由と社会規範という話をするときに思い起こすことが一つあります。

憲法第38条 (自己に不利益な供述の強要禁止、自白の証拠能力)
①何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

「第37条刑事被告人の権利」の後の条文ですから、そういう流れになるのでしょうが、普段の生活においても拡大解釈されると、「自由の履き違え」になってしまう。
「自己に不利益になることは言わない」「自己に都合のいい事だけしか言わない」
・・・これは、真実を隠蔽する行為を正当化していることになります。
また、弁護活動も、これに即して行われることを知っています。
弁護士を批判するものではありません。検事、弁護士、裁判官は法に従うことが
職務であり、それに従った職務を遂行することで公平が維持できる可能性が高いと判断したものと解釈しています。陳腐で愚かな事例が生じることがあってもである。
自由を拡大解釈したものか、人権の侵害という言葉に神経質になりすぎた条文かもしれない…、
嘘をつかないで真実を述べる義務ということを前提としていることを補足すればいいのにと思います。




最近の事件報道を見ていても、社会規範と個人の自由が・・・むちゃくちゃになってる人がいると思います。

黙秘権・・・?「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」  

え?  真実を述べる義務が先じゃないの?

社会規範(誤解した)を知っているから、社会規範を軽視する・・・




ちょっと・・・社会批判か、ボヤキになってきたかな

弱さとプライド5

2009-12-08 16:12:31 | 正しく愛す
個人主義と集団主義という言葉がある。

「他人を見下す若者たち」講談社現代新書 速水敏彦著
・謝らない子ども、親
・・・謝らない方がよいと考えるような社会は、さまざまな事柄が契約で決められる個人主義的な文化が想定され、先に謝る方がよいと考えるような社会は、さまざまな事柄が協力によって成り立つ集団主義的な文化が想定される。その点では、集団主義的な文化であった日本も、個人主義的な文化が優勢な社会にすでに移行してしまったのかもしれない。・・・

 
同様な表現に「自己愛」・・・だから他人蔑視という説明ができるのかもしれない。
しかし、「他人蔑視しない心」を持つことは、美しくありたいという自己愛であろうと考えることができる。

個人主義と集団主義の対峙で認識するのでなく、管理可能な集団社会では成立する集団主義的文化も、人口が多くなればなるほど集団の管理ができなくなるという結果の個人主義的文化なのだろう、と考える。
あるいは、性善と性悪、人の根源は何かという思考で集団の中の個人を認識し、社会性の分析をする考え方がよいのかもしれない。

個人主義的な社会の倫理面の問題については、軌道修正や変更ができないことではない、と考えるべきである。
ゆるい繋がりの大きな集団の中では、常に強い繋がりを求めた動きが起きるはずで
摩擦が大きくなれば、規律と調和を求めて、集団主義が見直される。
社会の規律は個人の自由を実現するためにあるといえる。
時代によって規律と自由はその質を変化させながら繰り返しているような外観がある。自由が過ぎれば規律、規律が過ぎれば自由・・・

そうした「螺旋的発展」を繰り返していくのが、人に社会のように見える。


つづきはあした