対人関係の戦術

2010-11-21 00:36:44 | 防犯論議
戦術というと、戦う意味なんでしょうが、
テクニックとか方法みたいな意味に近いかも

例えば、
中国があれをしてきたから、日本はこうするべきだ、とかいう議論があります。そもそもは両国が円滑な関係を継続するために何をすべきなのか、という共通認識が出発点にあり、問題が発生した場合の対処方法を議論する。という手順が通常は考えられるわけで、その議論の方法やプロセスを公開で行う。
両者の戦術・戦略、努力や苦悩が衝突するわけで、その経過を両国民が議論する。

戦争放棄という政治のあり方は、紛争の解決は武力を持って行わないと宣言しているのであって、日米同盟下で米軍と共同することが予想される有事が発生した場合、これは武力で紛争を解決することであって、憲法論議になるのかもしれない。
ある政治哲学者の論と思いますが、「戦争は政治の最大の失敗」
戦争のために日米関係を構築するのでなく、その関係があることで戦争にならないようにすることであることは論をまたない。

相手を知る努力も必要である。何十年も恨みと憎しみの歴史教育をすれば、その国民の行動予測はできるはずである。その国民を相手とする場合の言動とは何か、という認識判断が政治であるはずです。

さて、
この例えばなしと同様に、いじめの対人関係を考えてみると
紛争にならないための努力とは何か
相手に嫌がられない言動とは何か
相手に嫌がられてしまった場合にはどのように修復するのか、
対人関係の修復にはどのような方法があるのか

対人関係において紛争・衝突があるのは当たり前。衝突の内容で区別されるものでもあるかもしれませんが、衝突・考えの違いは好ましいことでもあることを承知したうえで、
個々人は大なり小なり自己中心・我儘であるはずだから
相手に服従することが苦痛やストレスでない関係以外は衝突の可能性があるはず。
だから、この衝突を回避する方法が明確であることが求められる。
それが法律や規則、道徳、倫理、社会生活上の習慣が市民社会の住人の自由の調整機能である。

で、各論の議論で出来上がった総論としての規制や法律であるが、これを逆流して、各論が総論の規制を守るかどうかという議論に変化する。
つまり、人は自由で豊かな人生を過ごすために、各人の自由を調整する必要があると気が付く、これが法律や社会制度ですが、各人はこの法律や制度を守るかどうかという問題を抱えているという意味です。

さらにさらにそもそもは、
いじめの対人関係の議論になる。自分の我儘のために他人を犠牲にする。
これを対人関係を調整するのは、大げさな法律論ではなく、道徳や倫理、社会生活上の習慣なのかもしれない。単純にいじめてはいけないを、当事者が責任回避のために言い続けるだけの外観ではいけないことは学習している。
では何か、という議論である。

関係者全員の共通認識になるような市民哲学

いずれ、たどりつくと信じてますが

最新の画像もっと見る