厭世観じゃなく厭生感?

2012-06-11 14:26:46 | 般若心経考
戦争や悪政、それによる飢餓の時代に、世の中に絶望する。
というようなイメージが厭世観なんですが、、、

衣食住足りて平和な時代に自殺や生きる力が乏しい症状が蔓延している。
世を儚んで、生きることに絶望するのではない。
世の中ではなく、競争に敗れて、自分が厭になって死にたい。。。と思うのだと思う。

世の中が混とんとして秩序もない、結果、自分の力で生きることが当たり前の時代と、
国家や政治などの体制が国民に利益をもたらす仕組みが高度化した現代は、
その体制、つまり世の中が生きることを保証してくれることが当たり前という考えから
「自分の力で生きる」意識が弱くなっている可能性がある。


自分が厭になる・・・コンプレックスとか自尊意識とかプライドが根なのか、失敗のリカバリーや救済システムがないことが根なのか、、、


例えば、
もちろん全てではないが、社会的地位や役割、財産や金銭で人生の評価がされていると見えます。または学業成績、職業能力、その根にある知識情報、表現力など、人は相対比較されて競争しているのである。
その競争に敗れる者が必ずある。
おそらく全ての人にプライド、自尊意識はある。
人から信頼されたい、愛されたい、という感情です。
どのように言いかえても、それも競争である。信頼度合い、愛される順序のようにである。

これだけ科学技術が発展しているのに
犯罪が多発している、
犯罪の原因を解明すれば予防も救済もできるはずなのに。
生きる力が弱まる精神症状が増加している。
このメカニズムと、予防と回復の社会システムなどは、
あって当然のように思えるが、
医療だけの仕事であるかのように、予防も救済方法も確立していない。

むしろこの社会全体の思考の硬直性にこそ、厭世観があり得るかもしれない。



「生きる力を強くする社会プログラム」
自殺も犯罪も、精神的症状も、、、その根は生きる力





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