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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 384 今年を彩った男たち ②

2015年07月22日 | 1983 年 



落合博満(ロッテ)…今季ラストゲームの10月18日の日ハム戦後に「やる事は全部やった。後は天に任せるだけだよ」と笑顔を見せたが取り囲んだ報道陣は意外であった。9回裏に西村の代打で登場したが江夏に右飛に打ち取られ打率を1厘下げ、打率2位のスティーブ(西武)が5厘差まで迫って来ておりさぞかし不機嫌な対応をするものと思っていたからだ。「ここ2試合は欠場し急に代打を告げられて準備不足だった。今季の最後を綺麗に締めくくりたったけど残念だった。でも悔いはないよ、全力を尽くしたシーズンだったから」と涼しい顔。それだけ落合には自信があったのであろう。報道陣が電卓片手に打率の計算に懸命になっていたが落合本人の頭の中ではスティーブが残り4試合で12打数7安打以上をマークしないと落合を越えられないのを既に把握していたのであろう。

振り返れば今季ほど落合にとって苦しいシーズンはなかった。キャンプ中に苦手の内角高目の球をドライブをかけて左翼線いっぱいに落とす新打法を試みたがこれが災いした。開幕してからの1ヶ月は2割7分台を行ったり来たり。得意の外角打ちも影を潜めてしまった。史上初の4割どころか3年連続の首位打者すら厳しい状態だった。試行錯誤を繰り返していた7月上旬の金沢遠征中に急遽フォームを元に戻した。顔の正面でバットを構えていたのをオーソドックスにし重心を下げてクローズドスタンスに。これを機に落合のバットから快音が再び聞かれるようになり球宴直前には打率を3割台に戻した。苦しい夏場も徹底した体調管理で乗り切り8月13日からの阪急戦の札幌遠征では2試合で7打数5安打し3割2分台まで打率を上げ、いよいよトップに踊り出るかと思われた8月31日の阪急戦でアクシデントが起きた。

打球を右手首に受けたのだ。幸い骨には異常はなく打撲で済んだが9試合欠場を余儀なくされた。好調だった打撃に悪影響が出るのではとの心配をよそに復帰後も打ちまくった。10月4日の日ハム戦で5打数3安打の固め打ちで3割3分3厘とし遂に112試合目にしてトップの座に帰り咲いた。以降、クルーズ(日ハム)とスティーブ(西武)との三つ巴の戦いが展開されたが落合が逃げ切り自己最高打率3割3分2厘で3年連続首位打者に輝いた。改めて今季を振り返って落合は「フォーム改造は長い目で見たら無駄ではなかった。今のフォームがベストではないのは確か。いずれ変えるよ」と改造をまだ諦めてはいない。苦しみながらも長嶋、王、張本といった強打者たちの記録に並ぶ3年連続首位打者を成し遂げた意義は大きい。今後の夢は史上初の4割打者。「永遠のテーマだよ。チャレンジし続けたい」と話す落合は目を輝かせた。



三浦広之(阪急)…イバラの3年間だった。来る日も来る日もシャドーピッチングと球拾い、背番号「22」の栄光を憶えている嘗ての女性ファンの多くが今では子持ちの主婦族だ。昭和56年5月のある朝、洗面所で朝の支度をしていた時ビリッという嫌な音と共に右肩に激痛が走った。福島商からプロ入りした1年目に4勝、翌年は7勝と先ずは順調な滑り出しだった。しかし3年目に3勝と成績を落とすと以降は下降線を辿る事となり挙げ句に肩を痛めてしまった。「もう思い出したくもない。『生きながら葬られ…』てジャズソングがあるけど本当にそんな感じでした。それでも故障した翌年はまだ再起出来ると思ってました。でも現実は厳しくフォームを下手投げに変えたりもしたんですがね…」 ここ3年は一軍は勿論の事、二軍ですら登板の機会は無かった。肩の痛みは消えたが後遺症で投球フォームがバラバラになり嘗ての球速は影を潜めたのだ。

それでも毎年キャンプの頃には「今年こそ」と期待は大きかった。今年も高知キャンプでは好きな酒を断ち深夜まで宿舎のロビーでシャドーピッチングをする三浦の姿が目撃されている。ルーキー時の躍動的な力強い投球フォームのビデオを見て山口二軍投手コーチとマンツーマンで復活を目指した。23歳、日蔭生活が続いた青年なら人生の進路を今一度考え直さなければならない年齢である。「自分にプロ野球の世界で明日があるのか、と自問自答してみると不安な思いしか浮かんでこない。来年も二軍で球拾いするのかって…惨めですよ」と。心機一転、そんな三浦が出した結論がプロゴルファー転向だった。嘗て「球界の玉三郎」と持てはやされた男がドロに塗れる覚悟をしたのだ。ゴルフは2年前から始めた。球界でも指折りの運動神経の持ち主である三浦はみるみる腕を上げていった。

初めて出場した阪急グループ企業で構成されているブレーブス後援会のコンペでいきなり優勝した。その時のハンデは「24」だったが直ぐに「15」にまで下げられた。その腕前にゴルフ関係者が目を付けてゴルファー転向を打診したのだ。「ゴルフで食べていけるなんて考えもしなかったけどこのまま野球を続けても先は見えない。新天地にかけてみようと思います。僕にもプライドがありますからね」と気持ちは既に固まっている。だが両親をはじめ後援者の多くがゴルファー転向に反対している。10月15日に球団フロント陣や上田監督と話し合いの場を設け残留するよう説得されたが結論は出なかった。例え来季も現役を続けても見込みが低い事は本人が一番分かっており引退・退団は固い。球団からはフロント転身を薦められたが「まだ20代、表舞台から身を引くには早すぎる」と話す三浦は10月末にも進路を表明するつもりだ。



篠塚利夫(巨人)…10月15日の夜、東京・文京区役所を訪れた篠塚の脇には小柄でチャーミングな女性が寄り添っていた。二人揃って婚姻届を提出に来たのだ。このニュースは海を渡り大リーグのワールドシリーズ視察の為に米国にいた長嶋氏の耳に届いた。「へぇ~本当?いや今はじめて知ったよ」と公私共に恩師である長嶋氏は驚きを隠さなかった。同じ頃、日本でもスポーツ紙が一面でこの電撃入籍を報じ大騒ぎとなった。新婦は嘉津子さん(28歳)で妊娠2ヶ月だという。篠塚より2歳年上の姉さん女房で、母親は『月よりの使者』で看護婦役を演じた元映画女優の折原啓子さんで長女の嘉津子さんは母親譲りの美貌の持ち主。来年6月にはパパになる予定である。そんな目出度い時に野暮は承知で篠塚の最近3年ほどの私生活を振り返ってみる。

昭和55年12月、篠塚は当時の " 多摩川ギャル " と恋に落ち挙式の日取りも決まり幸せ一杯の筈だった。ところが挙式の9日前に突然の婚約解消。「性格が合いませんでした。彼女にも周囲にも迷惑をかけて申し訳ないです。心機一転、来年は野球に打ち込みます」と頭を下げた。その言葉通り翌年は打率.356 と首位打者こそ逃したが大ブレークして一流プレーヤーの仲間入りを果たした。で、その年(昭和57年)のオフに政美さん(前妻)と一緒になった。ただ1年前の事があっただけに挙式は延期し翌年12月に長嶋夫妻の媒酌で盛大な式を挙げた。「日本的でしっかりした女性。彼女の為にも今度こそ首位打者を獲りたい。子供もなるべく早く欲しいです」とアツアツぶりをアピールした。

ところがところが僅か8ヶ月後に政美さんは実家に戻ってしまった。「別居は事実です。理由は性格の不一致」と以前どこかで聞いた台詞。前年には甲斐甲斐しくテレビ中継をビデオ録画し藤田(阪神)との首位打者争いに内助の功を発揮していたのに。それはまた恩師である長嶋氏の顔に泥を塗る失態でもあった。しかし、まさかその時すでに新妻・嘉津子さんと恋の炎を燃え上がらせていたとは恐れ入る。余りの早業にただただ驚くばかりだ。感想を求められる藤田監督も困惑気味に「まぁ大人同士ですからね…今度こそ失敗を繰り返さないようにしっかりした家庭を築いて欲しい」と答えた。本人は「いろいろ言われるのは覚悟の上です」と " 三度目の正直 " にかける。
コメント (2)
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