Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 480 センバツ史・昭和30年代

2017年05月24日 | 1985 年 



今年も甲子園にセンバツがやって来る。その歴史を紐解くと数々の名勝負を演じたヒーロー達が息づいている。センバツ史に燦然と輝くのは王投手(早実)の " 血染めの白球物語 " である。昭和32年大会、高知商との決勝戦。早実打線は高知商のエース・小松投手(現巨人スコアラー)を攻めて5回まで5対0とし楽勝ムードであった。試合が中盤を過ぎた頃、捕手の田村は王が投げた球に血が付いている事に気づいた。タイムを取りマウンドの王のもとへ駆けつけて王を質すと左手中指のマメが潰れていた。「田村、誰にも言うな」と王は答えた。チームメイトが知れば動揺するし、ましてや相手チームに知られれば勢いづかせてしまう。

ズキズキと激痛が王を襲う。田村は捕球する度に球に土を付けて血を消して返球した。6回頃から球威が落ち、8回には満塁のピンチを迎え連打を許し3失点。2点差まで詰め寄られた。迎えた最終回、王は一打同点の場面を何とか抑えて紫紺の優勝旗が初めて箱根の山を越える快挙を成し遂げた。昭和30年代は実力派が次々と名乗りを上げた。怪童・尾崎投手(浪商)の登場は昭和36年。今で言う所の " 150km " の豪速球で周囲を驚かせた。当時の高校生では外野に飛ばす事さえ難しいと言われた程。1回戦の日大二高戦が17奪三振、2回戦の明星高戦は14奪三振と寄せつけなかった。3回戦は法政二高戦。投打の中心である柴田(現巨人コーチ)に屈して甲子園を去った。

2年後の昭和38年には池永投手(下関商)が現れた。伸びのある速球を武器に甲子園を沸かせた。尾崎や池永はまさに超高校級で2人はプロ入り後に20勝投手になるなど活躍したが、尾崎は右肩の怪我の為に打者を捻じ伏せる豪速球を投げられた期間は短かった。また池永は黒い霧事件で永久追放処分を受け球界を去るなど共に長く華やかな野球人生を送る事は出来なかった。日本中がオリンピック一色となる昭和39年には尾崎投手(徳島海南)が快投を見せた。真っ向から投げ下ろす速球で5試合で許した失点は僅か「3」のみ。2回戦から準決勝戦まで3試合連続完封の快投だった。この尾崎も高校卒業後にプロ入りするが芽が出ず球界を去った。後のジャンボ尾崎こと尾崎将司である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする