Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#22 球界の首領

2009年04月26日 | 1978 年 
…昭和47年 晩秋の11月、東京銀座の第一ホテルでロッテの松井静郎専務とカネやんが対面交渉し
重光武雄オーナー勅命を受けて、大沢監督後任の第12代監督就任を要請されタレント稼業の身から
4年ぶりに現場に戻ると決めた直後の事である。交渉を一任されていた松井専務は監督の年俸として
「0」を7個つけた金額を提示した(カネやんによると3000万円だったそうだ)。するとカネやんはそれには
目もくれず 「給料はいらんからワシの会社をバックアップして欲しい」 「ワシには億単位の仕事をする
能力があるし自信もある、ゼロを1つ増やしてほしい」 全権を一任されていた松井専務も即決できず
オーナーの判断を仰いだ。オーナー曰く 「億の金を積んでも獲得する価値の有る男」とカネやんを評し
正式に監督に迎えることになった。            

                           -中略ー   

監督在任5年間で後期優勝2回、日本一1回。カネやんブームは低調だったパ・リーグに灯をともし
ロッテ本社のイメージアップにも計り知れない貢献をした。 「カネダ企画」をはじめステーキハウス・
サウナ・クラブなど7社に対する億を超える援助も元は取れたそうだ。カネやんは球団の人事権も
掌握していて、契約更改の時になると球団社長と共にソロバンをはじいた。 例えば1億5千万円を
人件費と決定して、もし予算がオーバーしてしまうと2軍で将来性のない選手を数人クビにしたそうだ。
テレビの仕事を優先して試合開始間際ギリギリに球場入りすることも珍しくないなど、勝手な行動も
多かったが選手はもちろんフロント連中もオーナーお気に入りのカネやんに意見できなかった。


ロッテOBでもない金田がここまで重用されたのは、オーナーの同胞意識からでしょうか。
過去から現在に至るまで、ここまでの全権監督は存在しなかったでしょう。第二次政権の
時は会社経営が危なくなり まとまった金銭が必要になった金田が逆にオーナーに泣きつき
契約金と年俸を手にしたと言われてます。現役時代からワンマンで お山の大将でなければ
気が済まない金田は野球界が、いつまでも川上や鶴岡といった古株に牛耳られているのが
我慢できず、長嶋や王を抱きこんで名球会を立ち上げたそうです。わざわざ"昭和名球会"とし
2000本 or 200勝 をクリアしている大正生まれの川上や別所に入会資格を与えませんでした。

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