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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 749 草魂 

2022年07月20日 | 1977 年 



ほれ、見たことか
話の巧みな人だ。相手を逸らすということがない。アクセントは関西訛り。だがその話し言葉は標準語に近い。話の合間に " ほれ見たことか " というムキ出しの大阪弁が飛び出して来る。それがこちらを驚かせる。思わずドキッとさせられる。だが話をしているうちに一見ドギツイ感じを受ける大阪弁が、実は彼の投手としての有り様というものを最も端的に表しているのではないかと思うようになってきた。プロ野球史上15人目の200勝をプロ12年目の今季早々に達成した。「投手は当然打者に研究される(鈴木)」。相手打者は鈴木を打ち崩そうとしてきたが、「相手に研究される前にこちらが対処すればいいだけの話」と鈴木は涼しい顔。

「早い話が相手打者が研究するのは昨年までの私だ。次の年になったら新しい投手になってマウンドに上がればいい。昨年までのデータが通用しないようになっていたら相手はまごつく(鈴木)」と。相手に「ほれ、見たことか」と思わせることが20勝投手の生きる道があると言う。「ほれ、見たことか」と口にする鈴木は本当に嬉しそうに楽しそうに活力と自信に満ちた表情になる。だが一方で策士策に溺れるということも過去にあったという。深く考え過ぎて自分の長所をも押し殺してしまい、逆に打者に打ち込まれてしまい泡を喰って再修正に追い込まれることも珍しくないという。


豪邸は憩いの場所だ
兵庫県西宮市街を一望に見晴らす甲山の中腹にある白亜の豪邸が鈴木の住まいだ。敷地250坪・建坪75坪。広々とした応接室の南面と東面がガラス張りで、そこから眼下に市街が見渡せ遠くには神戸の海が光る。周辺の坪単価は60万円は下らず、ザッと暗算したら目眩がしたので途中で止めた。「私らはプレーをお客さんに見てもらう仕事で報酬を貰っている。だから肉体的にも精神的にも常にベストの状態にするように心がけている。贅沢と思われるこの家を建てた真意もそこにある」と言う。試合で疲れ切った心身を休める為に最上の憩いの場を持つというのがプロ入り以来の念願だった。

幼少期は兵庫県の西脇町で育った。家業は酒屋で家も大きかった。その為、今もアパートやマンションでは心からくつろぐことが出来ない。「例えば隣の部屋から子供の騒ぐ声が聞こえたら寝られない。寝不足で体調を崩してプレーに支障をきたしたら、プロとして下の下ですよ」と言う。鈴木は小学生の頃からプロ野球選手を本気で目指していた。「小学校のクラス会に行った時に同級生から言われたんだが2年生の時の作文でプロ野球選手になると書いていたそうだ。自分じゃ憶えていないんだけどね。プロでお金を稼いでもう一軒の酒屋を持つのが夢だったらしい(笑)」と鈴木は小さく笑った。

「あの頃は赤バットの川上さんに憧れていたなぁ。上級生になると長嶋さんのような選手になりたいと思っていた」と少年の頃を振り返る表情は子供のままだ。その頃の夢を追い続けて遂に200勝という大記録を樹立した。「大記録といえば大記録かも知れないが、自分ではそう思ってはいない。200勝はプロ野球選手としてあくまで一つの区切りです。まだまだやり残していることもある。200勝を通過点として、さぁこれからだというのが今の気持ちですね」とプロ野球選手としてまだまだ上を目指している鈴木である。


なんでも1番が好き
背番号は『1』。高校野球なら当たり前だがプロ野球で投手が背番号1というのは珍しい。「でしょう。投手で一桁の背番号は阪神のバッキー(4番)くらいじゃないかな最近では(鈴木)」と。育英高校から近鉄入りした時に、たまたま1番が空いていて「それを下さい、とお願いしたら許されたんだよね。海のモノとも山のモノとも分からない若造に1番をくれた球団も気前がいいよね」と鈴木は苦笑する。「プロになるならやっぱりトップを行く選手になってやる。一番になってやる、っていう気持ちでした。昔から一番が好きでしたね」と鈴木は述懐する。そう話している途中に応接室に入って来た3歳になる長男のシャツの背中にも「1番」が書かれていた。

インタビューも一段落し、雑談していると鈴木が「ソウコン」という言葉を発した。私がソウコン?と聞き返すと「そう、草の魂と書いてソウコン」と鈴木が言った。耳慣れない言葉だったのでどういう意味なのかと尋ねると「私が考えた言葉で今まで他人に言ったことはない。今初めて言うが、プロ入り以来ずっとこの言葉を自分の胸に秘めて座右の銘としている」と鈴木は答えた。草魂は雑草のような根強さを持つ魂だという意味だと言う。「雑草は踏みつけられ、押し潰されても枯れることなく粘り強く芽を出して生長していく。それがたまらなく好きで自分もそういう生き方をしていきたいんだ」と。

私は思わず鈴木の顔を見返した。鈴木はプロ入り以来順調に勝ち星を積み重ね、常に栄光の道を歩み続けてきた男ではないのか。昭和41年に近鉄に入団し、いきなり10勝をし翌年には早くも20勝投手の仲間入り(21勝)をし、昭和43年には23勝。同44年には24勝で最多勝にも輝いた。昭和50年には勝率第1位投手にもなっている。そんな長年に渡りプロ野球界を代表する投手の一人である鈴木が、いったいどこで誰に踏みつけられてきたというのか不思議に思った。大きな故障もなく200勝を達成し栄光のスター選手となったのも鈴木自身の努力と鍛錬の賜物であろう。

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