100球で自信へ
日本のプロ野球が全ての面で目標にしているアメリカ大リーグ。この中で実際にプレーした唯一の日本人が村上雅則投手。他の日本人選手にとって羨望の的の " 元大リーガー " としての誇りと自信を村上投手は長い間ホコリまみれのまま放置し忘れていた。その忘れ物を思い起こしたのが6月1日のロッテ戦だ。3回一死一・二塁で得津選手、リー選手と左打者が続く場面で登板した。対左のツーポイント用の予想に反して村上投手は9回まで投げ切った。「ヤツはいつも60球が限度でそれ以上投げるとヒジや肩が痛くなるというので無理はさせなかったが、今日は自分で『行ける』と言ったからね」と大沢監督もビックリの快投だった。
投球数 100球 ・6回 2/3 を1失点。「こんなに投げたのは3年前の阪急戦の完封勝利以来かな」と本人も頬をつねってニッコリ。今季初勝利の興奮に震える村上投手は「自分で60球が限度だと決めつけていたけど、まだ力は残っていたみたい。俺もまだまだやれる」と自信あふれる話を続けた。球数だけではない。猛烈な勢いで本塁打を量産していたリー選手を3打席3三振。記者から「リー選手は大リーグでは打ててない。元大リーガー投手に怖気づいた?」という誘い水に「まさか!」と笑い飛ばしたが満更でもなさそう。
昭和38年に法政二高から南海に入団した村上投手は翌39年にSF・ジャイアンツに留学した。ところが契約書の手違いからトレードの形式になっていた村上投手は公式戦にも登板して1A・フレズノから9月1日にメジャーに昇格した。地元は日系人も多く客寄せの意味合いもあっただろうが、9試合に登板し1勝1S・防御率 1.89 の好成績を残した。翌年は早くも抑えの切り札に。ハーマン・フォックス監督(現カブス監督)の下で45試合に登板し、4勝1敗8S・防御率 3.75 ・74回1/3 で85奪三振と投球回数を上回った。余談になるが当時の左腕ナンバーワン投手のコーファックス投手(LA・ドジャース)からヒットを打ったのが自慢だそうだ。
諦めていた投球数100球が戻ってきた。「自分の限界と可能性に挑戦した勝った。 " やれる " 自信が出来ました」と言い切る笑顔の爽やかさは本物だ。限界と可能性への挑戦は最後の賭けだった。一昨年の暮れ、大沢監督は東田選手を放出し阪神から村上投手を獲得した。大沢監督の狙いは一つ。「投手が欲しい。特に左投手。とはいってもどこもエース級を出してはくれない。それなら一層のことかつての栄光がありながら断崖に立たされている男の最後の踏ん張りに賭けてみようと思ったのさ」
勝ち星を気にする歳でもないよ
SF・ジャイアンツから帰国した昭和41年は6勝、翌42年は3勝と期待に応えられなかったが昭和43年は18勝4敗で勝率1位投手に輝いた。以降、コンスタントに10勝前後だったが昭和50年に阪神に移籍した。だが阪神での登板は19回1/3 に終わり、在籍わずか1年で日ハムに移籍した。「初めての東京で生まれ変わったつもりで頑張る」と決意したがキャンプイン直前の自主トレ中に腹痛を発症した。断腸の思いとは洒落にもならなかったが、盲腸の手術を行いキャンプは不参加となり多摩川グラウンドでランニングを開始したのはオープン戦が始まる頃だった。当然開幕には間に合わず昨季は32試合登板に終わった。
しかも起用されたのは対左打者専門のワンポイントばかりで長いイニングを任されることはなかった。それどころか左打者不足のチーム事情もあって長打力がある村上投手に野手転向の案が浮上し、実際に転向の準備を命じられて試合前は投手の練習が終わると他の野手と同じだけの打ち込みの練習を行っていた。投手と野手のかけもちはシーズン終了まで続けられた。だが今年は開幕から好調で投手に専念している。「(高橋)一三・野村・佐伯と揃って、(高橋)直樹だけじゃなくなったからオレの出番が無くなっちゃった。オマンマの食い上げだよ」と笑う。先発陣の完投ペースが増えて中継ぎ陣の登板する機会が減ったのだ。
中継ぎだから勝ち星やセーブポイントには縁が無い。現在1勝1敗1S(6月25日現在)だがチームへの貢献度は高い。シーズン前半戦、日ハム投手陣で頼りになるのは高橋直投手だけだった。野村、佐伯、杉田投手らが登板するとピンチの連続だった。ほとんどのチームは左打者がクリーンアップであり村上投手が救援するケースが多かった。「でもいいじゃないですか。表に現れる数字に目の色を変える歳でもいないし、チームが勝利すればそれで良しですよ」と投手陣で最年長の村上投手は淡々と話す。
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