私は「 愛 」という言葉はめっなことでは使いません。
このブログでも、「 愛 」という単語は一度も
使った事はありません。
愛情 ・ 愛念 ・ 愛国 ・ 博愛 など・・・・
二字の言葉はよく使います。
この場合、愛という言葉に具体性があるからです。
「 愛 」 という言葉は日本人には
理解できない単語であると思っています。
現に、私の父も、母も、祖母も、「 愛 」と云う言葉は一度も
発した事がありません。
私の知る限り
昭和初期に生まれ育った人間は、
軽はずみに「 愛 」と云う言葉を使わない。
その背景には、日本人個有の美意識があると思っています。
成人した大人で、
「 愛してる 」などという言葉を
何の抵抗も無く大きな声で発することのできる人は、
宗教界関係者、
芸能界関係者、
音楽関係
芸術家系、
ヒッピー系、
新左翼 (緑系)
・・・など
特殊な分野の方たちだけだと思います。
私は、「 愛 」という言葉は、
めったな事では使わない代わりに、
「 慈悲 」「 慈愛 」
と云う言葉は何の抵抗もなく発します。
芸能人や有名人が結婚する時、
彼女を愛しています
彼を愛してます
愛し合っています
愛を誓います
などと得意満面になっての給われます。
でも、そのほとんどが、2~3年で離婚。
もっと極端な場合、半年も経たないうちに破局と云った
ことも珍しくありません。
更に、それに留まらず、骨肉の争いを始めるといった醜態。
こういうときの、彼らの決まり文句。
もう彼女を愛せなくなりました・・
愛がなくなりました・・・
???
意味不明な言葉と感じます。
こういうのを
茶番劇というのではないでしょうか・・・
この人はどういう意味で、
「 愛 」という言葉を使っているのか?
好奇心? 冒険意欲? 独占意識?
優越感? 性欲? 支配欲?
顕示欲? 格好つけ?
即ち、こういう方々にとつて「 愛 」とは、
「 衝動的情念 」 「 ファッション 」のように思えてなりません。
「 愛 」という言葉は、こういう使われ方をされ続けたことに
よって、本来の意味を離れ、
怪しい言葉 の雰囲気を持ってしまっているように思えます。
そういう意味では 「 愛 」という単語は、
被害者かもしれません
「 私は鳥の唐揚をこよなく愛してます 」とか、
「 私はドイツワインを愛しています 」など、
軽い意味で使うなら違和感を感じません。
宗教では、「 神の愛 」という言葉を使いますが。
この場合は、深い意味を感じます。
なぜなら、ここで使う「愛」とは、
永遠、普遍、 不滅、絶対、を意味しているからです。
それなりの決意と、覚悟と、をもって、
「 愛 」という言葉を発している人も多くいることは確かです。
もし、自分の子供や、親兄弟に対して、
「 愛する 」と云う言葉を使ったとしたなら、
その内面において、何の違和感もありません。
(私は使いませんが)
親子の情 (愛?)は、それを継続するにあたり、
何の努力も必要としません。
普遍にして永遠だからです。
でも、元は赤の他人である結婚相手に対して、
「 愛する 」などという
言葉を使う事に、私は大きな抵抗と恥じらいを感じます。
ただし、
「 愛 」という言を使わなくても、
心の中に、妻に対して、
大切に思う気持ち、失いたくない気持ち、
労わる気持ち、心配する気持ち、は持っています。
これらの想いを、西洋の言葉で
「 愛 」と言うのかもしれませんが、
私は妻に対して
「愛してる」などと言ったことは一度もありません。
世間を見渡すと、軽薄な、漠然とした、
「 愛 」という言葉だけが
独り歩きしているような気がしてなりません。
異性(結婚相手)に対して
「 愛 」? を抱き、その結果、結婚したからには、
それを死ぬまで貫かなければならない
責任が発生すると思います。
何があっても、一緒に歩んでゆく責務がある。
相手の運命にも責任を持たなくてはいけない。
これは、特に男のほうに強い責任がある。
これは、相手に対して、
好きだとか、嫌いだとかの問題ではなく、
「 責任 」であると思うのです。
相手を「好き」であり続けるためには
努力が必要です。
動物的衝動だけに身を任せるなら、
結婚制度など必要がなくなってしまう。
「 責任を持つ 」
これこそが、人間の人間たる所以であると思うのです。
「 愛だ!!! 愛こそ全てだ!!! 死ぬまで愛す!!!」
などというドラマのセリフを吐く以前に、
「 黙って責任を感じ、責任を果す 」
これこそが、もっと肝心なことではないだろうか?
表面に現われた、長所、短所に一喜一憂していては、
何も見えては来ない。
表面に現われた、「 現象 」の奥にある真実を見ることが、
使命であり、修行である。
相手の内に宿る
「いのちの尊厳」「 生命のホントウの姿 」を見つめる事こそが
最重要課題。
だからといって、
「離婚は絶対に許されない」
などと言った原理主義的な考え方には、無理があります。
その人にしか分からない、複雑な事情があって、
止むを得ない理由で離婚に至るケースもある事も確かです。
そこまで、否定する気はありません。
個人の事情は、千差万別であり、それを「ひと言」で斬るような
考え方は「傲慢」であると思います。
この事に限らず、 深い考えや信念もなく、
軽々しく日本人が
「 愛 」という言葉を使うことは、
言葉が、ひとり歩きしてしまうことになます。
現に、私が知る新左翼(緑)の活動家のある人は、
愛だ!!!
ハートだ!!!
感謝だ!!!
自然との共生だ!!!
と、体育会系のノリで叫んでおみえになるのですが・・・
伝え聞くところによると、
その人の実際の行いは、自分の地位とと名誉のために、
画策、陰謀、智謀、恩のある人に対する裏切り、
工作、嫉妬・・・
あまりにもミットモナイ・・・
こういう人は、愛という言葉に酔っているのでしょう。
若しくは、この言葉さえ唱えていれば
自分を美化、正当化できると思っているのでしょう。
「 愛 」という言葉を呪文にして、
自分の愚かさをも、美化している。
この免罪符を使うことによって、誰からも非難される事なく、
自分自身を欺き続ける・・・
御気の毒としか申し上げようがございません
こういう人が、結果的に多くの人を不幸にしてしまうのです。