名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

愛! 愛!!と叫んで逃げ回る輩。

2016-02-13 | 宗教


私は「 愛 」という言葉はめっなことでは使いません。

このブログでも、「 愛 」という単語は一度も
使った事はありません。

 愛情 ・ 愛念 ・ 愛国 ・ 博愛 など・・・・
二字の言葉はよく使います。

この場合、愛という言葉に具体性があるからです。

「 愛 」 という言葉は日本人には
理解できない単語であると思っています。

現に、私の父も、母も、祖母も、「 愛 」と云う言葉は一度も
発した事がありません。

私の知る限り 
昭和初期に生まれ育った人間は、
軽はずみに「 愛 」と云う言葉を使わない。
その背景には、日本人個有の美意識があると思っています。

成人した大人で、
「 愛してる 」などという言葉を
何の抵抗も無く大きな声で発することのできる人は、

宗教界関係者、
芸能界関係者、
 音楽関係
芸術家系、
ヒッピー系、
新左翼 (緑系)

・・・など

特殊な分野の方たちだけだと思います。

私は、「 愛 」という言葉は、
めったな事では使わない代わりに、
「 慈悲 」「 慈愛 」 
と云う言葉は何の抵抗もなく発します。

芸能人や有名人が結婚する時、
彼女を愛しています
彼を愛してます
愛し合っています 
愛を誓います 
などと得意満面になっての給われます。

でも、そのほとんどが、2~3年で離婚。
もっと極端な場合、半年も経たないうちに破局と云った
ことも珍しくありません。

更に、それに留まらず、骨肉の争いを始めるといった醜態。

こういうときの、彼らの決まり文句。

もう彼女を愛せなくなりました・・ 

愛がなくなりました・・・ 

???

意味不明な言葉と感じます。

こういうのを
茶番劇というのではないでしょうか・・・

この人はどういう意味で、
「 愛 」という言葉を使っているのか?

好奇心? 冒険意欲?  独占意識? 
優越感?  性欲?  支配欲? 
 顕示欲?   格好つけ?

即ち、こういう方々にとつて「 愛 」とは、
「 衝動的情念 」 「 ファッション 」のように思えてなりません。
    
「 愛 」という言葉は、こういう使われ方をされ続けたことに
よって、本来の意味を離れ、
怪しい言葉 の雰囲気を持ってしまっているように思えます。
そういう意味では 「 愛 」という単語は、
被害者かもしれません
  
「 私は鳥の唐揚をこよなく愛してます 」とか、
「 私はドイツワインを愛しています 」など、
軽い意味で使うなら違和感を感じません。

宗教では、「 神の愛 」という言葉を使いますが。
この場合は、深い意味を感じます。

なぜなら、ここで使う「愛」とは、
永遠、普遍、 不滅、絶対、を意味しているからです。

それなりの決意と、覚悟と、をもって、
「 愛 」という言葉を発している人も多くいることは確かです。
 
もし、自分の子供や、親兄弟に対して、
「 愛する 」と云う言葉を使ったとしたなら、
その内面において、何の違和感もありません。
(私は使いませんが)

親子の情 (愛?)は、それを継続するにあたり、
何の努力も必要としません。
 
普遍にして永遠だからです。

でも、元は赤の他人である結婚相手に対して、
「 愛する 」などという
言葉を使う事に、私は大きな抵抗と恥じらいを感じます。

ただし、
「 愛 」という言を使わなくても、
心の中に、妻に対して、
大切に思う気持ち、失いたくない気持ち、
労わる気持ち、心配する気持ち、は持っています。

これらの想いを、西洋の言葉で
「 愛 」と言うのかもしれませんが、

私は妻に対して
「愛してる」などと言ったことは一度もありません。

世間を見渡すと、軽薄な、漠然とした、
「 愛 」という言葉だけが
独り歩きしているような気がしてなりません。

異性(結婚相手)に対して
「 愛 」? を抱き、その結果、結婚したからには、
それを死ぬまで貫かなければならない
責任が発生すると思います。

何があっても、一緒に歩んでゆく責務がある。

相手の運命にも責任を持たなくてはいけない。

これは、特に男のほうに強い責任がある。

これは、相手に対して、
好きだとか、嫌いだとかの問題ではなく、
「 責任 」であると思うのです。

相手を「好き」であり続けるためには
努力が必要です。

動物的衝動だけに身を任せるなら、
結婚制度など必要がなくなってしまう。

「 責任を持つ 」
これこそが、人間の人間たる所以であると思うのです。

「 愛だ!!! 愛こそ全てだ!!! 死ぬまで愛す!!!」
などというドラマのセリフを吐く以前に、
「 黙って責任を感じ、責任を果す 」
これこそが、もっと肝心なことではないだろうか?

表面に現われた、長所、短所に一喜一憂していては、
何も見えては来ない。

表面に現われた、「 現象 」の奥にある真実を見ることが、
使命であり、修行である。

相手の内に宿る
「いのちの尊厳」「 生命のホントウの姿 」を見つめる事こそが
最重要課題。
  
だからといって、
「離婚は絶対に許されない」
などと言った原理主義的な考え方には、無理があります。

その人にしか分からない、複雑な事情があって、
止むを得ない理由で離婚に至るケースもある事も確かです。
そこまで、否定する気はありません。

個人の事情は、千差万別であり、それを「ひと言」で斬るような
考え方は「傲慢」であると思います。

    
この事に限らず、 深い考えや信念もなく、
軽々しく日本人が
「 愛 」という言葉を使うことは、
言葉が、ひとり歩きしてしまうことになます。
  
現に、私が知る新左翼(緑)の活動家のある人は、
愛だ!!!
ハートだ!!!
感謝だ!!!
自然との共生だ!!!
と、体育会系のノリで叫んでおみえになるのですが・・・

伝え聞くところによると、
その人の実際の行いは、自分の地位とと名誉のために、
画策、陰謀、智謀、恩のある人に対する裏切り、
工作、嫉妬・・・

あまりにもミットモナイ・・・

こういう人は、愛という言葉に酔っているのでしょう。

若しくは、この言葉さえ唱えていれば
自分を美化、正当化できると思っているのでしょう。
 
「 愛 」という言葉を呪文にして、
自分の愚かさをも、美化している。
  
この免罪符を使うことによって、誰からも非難される事なく、
自分自身を欺き続ける・・・
御気の毒としか申し上げようがございません

こういう人が、結果的に多くの人を不幸にしてしまうのです。
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運命・宿命・・・その根源

2016-02-13 | 宗教


私の父親、は大腸癌で亡くなった
66歳の若さであった
あれから15年の歳月が流れた

私の父親は13歳のとき、父親を疫病(チフス)で亡くしている。

それ以来、4人兄弟の長男として学校にもほとんど通わず、
勉強など一切せず
ガムシャラになって働き一家を支え、
最終的にはマアマアの財産を築いた

父親の母親はのん気でお気楽な気質、
あまり働かない。
            
父は13歳にして実質的には、一家の大黒柱とならざるを得なかった

そんな人生を歩んできたが故
父は物凄く金に細かく、ケチであった
幼い頃、父親に玩具など一度も買ってもらった事はない。

何か買ってと言うと物凄い形相で睨み付けられた
父と母はいつも ‘金‘の事で喧嘩していた

父は私の話には一切、耳を傾けず
何を言っても睨み付けるだけだった。

私は、物心ついた頃から、
父親を冷たい視線で見るようになっていた
父の ‘ ケチ ‘ な気質と
ひとりよがりな所が大キライであった
勿論、尊敬する部分もあったが
腹の立つことの方が多かった

いつしか、あんな人間にはなりたくない・・・・
と思うようになっていた

父を亡くして15年の歳月がながれ
私は、いま 二児の父親になっている

今になって思う・・・・・・

私の目から観た 父親の長所、短所、は
私に科せられた課題である。

私と父親は親子と言えども別人格
私は親のコピーではない

しかしながら、 ‘私‘ と言う人間の根底には
親から遺伝的に受け継いだ‘ある方向性‘というものが存在する

‘ある方向性‘
とは短気だとか、神経質だとか、真面目だとか、
気難しいとか・・・
優しいとか、朗らかだとか・・・

そう言った表面に現われた、具体的な性質ではなく、
精神や魂の根底の部分、例えて言えば
コンピューターの「 フォーマット 」
ハードデスクやメモリーに文字や数字を記憶させるとき
ハードデスクやメモリーはそれを受け入れる為の 
‘下地‘ を必要とする。

もともと、ハードデスクやメモリーは空っぽの状態であるが
そこに、下地を覚えさせてやらないと、
データーを書き込む事はできない。

その下地の事をフォーマットという

フォーマットはデーターそのものではないが
データーを受け入れる土台である。

下地はイロイロな種類がある

Aのフォーマットで書かれた文字やデーターは、
Aのフォーマットの媒体にしか
読み取る事が出来ない

Aのフォーマットで作られたデーターは
Bのフォーマットに読み取らせる事は不可能

私の持つ人格や考え方と
父親の持つ人格や考え方は

まったく別物ではあるけど
そのデーターが乗っかっている土台 (フォーマット)はまったく
同じものである。

父親もフォーマットを、その両親から受け継いでいる
血統とはそういうものではなかろうか
  
昭和初期、出口仁王三郎 という宗教家がいた
このお方、幼い頃から神通力があり
神童と言われていた
回りから 「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間という意味)
と呼ばれる程であった
後に、宗教団体を創設し、カリスマ的教祖となった

最近知った事だが、
出口仁王三郎の孫Wさん、
ある有名進学塾の講師をしているらしい
このお孫さん、進学塾講師の世界では、
‘カリスマ講師‘ と呼ばれているらしい
仁王三郎さんの作った宗教とは無縁で
あくまでも講師という土俵で活躍しているのだが、
その世界で仁王三郎さんと同じように
‘カリスマ‘
になっている
やはり、出口家の血統のなかには
カリスマを輩出するフォーマットがあるのだろう
Wさんの子供もそれを受け継ぎ
また別の世界で‘カリスマ‘となるだろう・・・・

よくよく、調べてみると
この手の話はいくらでもある

私の目に映る親の姿は、
客観的に見ているつもりでも
限りなく客観的ではない
実は、自分の意識を通して親を見ている

自分の意識=自分の根底( フォーマット )
=親の根底( フォーマット )

即ち、 私の目に映る親の姿は 
「自分、個有の意識」とい色眼鏡を通して、
‘自分自身の本性‘ をを見ていることになる。

もし私が親の事を心の底から憎んだり、
怨んだりしたなら、これは、
完全な自己破壊を意味する

親と自分は同じフォーマット、
親の人格、を否定してしまう事は
自分の根源 ( フォーマット )を否定する事になってしまう


もっと突き詰めて考えれば

私の持つ 、親への思いは
「私自身の姿」 なのだ

親を見ているようで、そうでない

実は、自分を見ている事に他ならない。

更に、もっと先を見つめるなら、
親 → 先祖 → 神
    
個人レベルでを語るなら、
神はその人の先祖をパイプラインにして、
という形で姿を現す。

親への恩、
先祖に対する意識、
この2つの要素を否定したり、放棄したりする者は、
どんなに徳を積もうとも、
「 敗北者 」としかなり得ない。

どんなに高い地位の人であろうと、
社会的成功者であろうと、
これが理解出来ていない人間のいう事を聞いてはいけない

親の人格を否定したり嫌ったりしている限りは、
自分が潜在的に持つ ・  要因 ・ ( 宗教では‘因縁‘と呼ぶ)
から永久に抜け出すかとは出来ない

もちろん、親といえども、現象的側面で見る限りに於いては、
不完全な部分は多い、

ただ、その不完全な現象の奥にある、「 真実 」
を見ることこそが、修行であり、課題なのだ。
  
その「 真実 」とは、
言葉を変えれば、「 ホントウの姿 」
これ即ち、人間の本質は、 ‘ 神の分霊 ‘であり、
‘ 神そのもの ‘ ということである。

これを知ることを、「 悟り 」と呼ぶ。
    
自分の意識が受け取る、親の短所、嫌いな面は自分の課題であり
真摯に受け止め、自分がそれを打破していかなければならない宿命をもつ

血統はいくらあがいても変えることの出来ない宿命

だからと言ってそれを悲観的に考えてはいけない
現に今、ここに自分が存在すると言う事は
存続するに値する血統であるからである
これは、私に限らずどんな人間にもいえる事である

ダーウィンの進化論的に ‘自然淘汰‘の観点で人間に血統を
検証すれば、
存続する意義のない血統はとっくの昔に滅びていたはず

でも、現に今ここに存在する人間に関しては
淘汰されずに先祖から血脈を受け継いでいる

如何なる人も
今、現に、生きているだけで、素晴らしい事であり、
奇跡的なことなのです
 
ならば、子供がいなかったり、親族すべて死に絶えた人、
そこで、血統が途絶えてしまうヒトは
存続意義がないので‘淘汰‘されという意味なのか?

それは違う

どんな血統も、いつかリセットしなければならない時期が
必ずやって来る
その時期に偶然生まれて来ただけの事

その場合、こういう人は、
血統維持の使命がない代わりに

普通の人とは違う、別の大きな使命がある

ある意味、重要な人間である

聖徳太子は偉大なる聖者であるにも関わらず
敵対勢力の陰謀で一族全てが殺され
完全にその血統を絶たれた

しかしながら、聖徳太子の人徳と功績は、現代の日本に
今なお大きな恩恵をもたらしている

親との、確執を乗り越える事は

先祖から受け継いできた課題を清算し、
新たなる飛躍を遂げる為の チャンスである

まさしく

神が、人間に与えたチャンスと受け止めるべきではないだろうか・・・
でも、確執が嫌悪で終わったら悲しい

親を怨む事は、自分を怨む事
自分で自分を怨めば、自分は破壊される

無意識に自分に不利な行動や選択をする結果
悪い運命を呼び寄せる

親を否定してしまったら、もう自浄作用はなくなり
自己の破滅へと向かうのです・・・・

このことは、長年、多くの人間観察や分析をして来た私の結論、

理屈ではない無条件の感謝

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