田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・中宮がご出産された若宮は、
すこやかな姫宮さまだった
(皇子さまだったらよかったのに)
という人、
(いや、この多難なとき、
姫宮のほうがかえってよかった)
という人もあり、
私はそれよりも、
主上のお使いが矢のように、
繁く来るのが嬉しかった
暮れのあわただしい中、
姫宮の産養が行われる
右近の内侍が参って、
さまざまの儀式を行った
故・道隆公ご在世であれば、
主上はじめてのおん子のご誕生に、
どんなに花やいだことであろうか
それでも白一色の衣に変った邸内は、
にわかに生き生きした気配が、
よみがえり、私たちは喜んだ
お産が軽かったのも嬉しいし、
姫宮がおすこやかで、
美しくいられるのも嬉しかった
なんとまあ、
力強いお声で泣かれるものか、
私は久しぶりに遠い昔、
則光の子の吉祥丸を、
抱いたときのことを思い出した
あの時吉祥は六カ月だったけれど
姫宮の泣き声は、
邸内から今年中の不吉を、
吹き払ってしまうように、
すがすがとめでたい
まったく長徳二年という、
この年は悪いこと続きであった
伊周(これちか)の君、
隆家の君、
そのほかのご一族の不幸、
流人となって流されなすったかと思うと、
二条のお邸は火災に遭うし、
母君の貴子の上は亡くなられるし、
弘徽殿、承香殿と、
女御はお二方も入内なさるし、
定子中宮にとっては、
お辛い日々であったと思われるが、
それもこれも、
姫宮のご誕生でいっぺんに、
消えてしまった
「お美しいこの宮さまを、
主上にお目にかけることが、
できたら・・・
女院(主上の母君)も、
お心にかけていらして、
お喜びでいらっしゃるそうで、
ございます
はじめての孫の君ですもの」
と右近はいった
右近は主上のご信任あつい女房で、
中宮や私とも心安い仲だから、
今までもひそかにお見舞いに、
来てくれていたが、
このたびは公式のご用で、
遣わされたので、
人目を忍ぶこともなかった
「筑紫にも但馬にも、
さぞ若宮をゆかしくお思いでしょう、
けれど、
やはりそれは主上がいちばんで、
いらっしゃいましょう」
右近は七日まで泊まっているので、
夜々私たちにそんな話をする
「かわいそうに、
あの人は自分の罪咎でもないのに、
一族のために苦労させられて、
思いもかけぬ尼にさせてしまった」
と主上は、
取り返しがつかぬように、
思い悩んでいられるとか
「いいえ、
中宮さまは尼姿では、
いらっしゃいませんよ」
と私がいっても、
右近は、
それを単なる気安めと、
とったらしくて、
「尼姿になられては、
今後、参内されることは、
はばかられるし、
さりとて主上は中宮に、
お会いになりたがられて、
日夜、恋しく思われ、
そっとお涙を拭いていられるときも、
ありますのよ
女院もお慰めになるのですが、
さすが大殿(道長の君)への、
思惑もおありで、
お悩みでございます」
右近はそういうのだった
新女御たちの、
弘徽殿、承香殿の御殿でも、
中宮は尼になって、
世を捨てられた、
主上のご寵愛をこれからは、
こちらが競おう、
という意気込みで、
振い立っていられるそうな
そして、
左大臣の道長の君のお邸では、
一日も早く、
彰子姫を入内させたいと、
姫のご成長を引き延ばす思いで、
待っていられるそうな
中宮が尼になられた、
という噂は、
左大臣のお邸から出ているらしい
「いいえ、
それは違いますわよ
お髪もそのままの俗体で、
いらっしゃいますわ」
と私が打ち消しても、
右近は不思議そうに、
「でも、五月一日のあの日、
たしかにお手ずから、
お髪を下ろされた、
とお聞きしていますもの・・・
あのあと、
ご連絡にたびたび参りましたときも
やっぱりご落飾のご様子に、
拝見しましたわ・・・」
というのであった
五月一日の、
あの運命の日の話になると、
周囲の女房たちは、
ぴたりと口をつぐむ
現場にいなかった私は、
何ともいえない上に、
長いあいだ中宮のお側を離れていた
そのころのお姿、
どういうお気持ちでいらしたか、
自信をもって私は断言できない
しかし私が何十日かぶりで、
中宮の御前へ出仕したとき、
全く昔のままだった
俗世の執着を断ち切って、
仏門へ入った人の明るさではなく、
この世を生きる、
人間の明るさだった
(故父君がご在世であれば、
ご誕生の祝賀も花やかに)
(故母君のご不幸が、
もう二ヵ月遅ければ、
姫宮のご誕生をごらんになり、
せめてものお心なぐさめに、
喜んで逝かれたかも、
わかりませんわね)
というのへ、
中宮はうなずかれるが、
決してそれを自分からは、
仰せられない
右近から手紙が来て、
あのあと、宮中へ参内すると、
主上が待ちかねていられた、
というありさまが、
こまごまと綴ってあった
「どうであった
それから・・・それから・・・」
とせきこんで、
お尋ねがあったそうな
それからそれへと申しあげると、
「そうか」
と主上は涙ぐんでいられたよし
「お美しい姫宮でいらっしゃいました」
と申しあげると、
「見たいなあ」
と深い嘆息を洩らされて、
「昔は皇女が生まれられて、
七つ、八つになるまで、
ご対面はなかったそうだけれど、
今は、そんなしきたりは、
すたれているというではないか
東宮の方では、
生まれられた若宮をおそばに置き、
東宮みずからお抱きになって、
可愛がっていられるようだ
東宮一家が水入らずで、
楽しんでいられるのが、
うらやましい
自分たち親子は、
いつになったら会えるのやら・・・
まして中宮が、
尼になられたとすると、
もう二度とお目にかかれないかも、
しれないね」
主上はひたすら、
中宮とお生まれになった姫宮を、
恋しく思われるようであった
(次回へ)
・その夜、
中宮は私をお側に呼ばれて、
「わたくしはあの時、
世を捨てるつもりでいたけれど、
わたくしが世捨て人になると、
この一族はばらばらになってしまう、
まして、
これから生まれていらっしゃる、
若宮がお可哀そうと思ったの、
こんな執着があっては、
仏の道など修められそうもないし、
仏罰をこうむることになるでしょう
もう二度と内裏へ戻ることは、
ないかもしれないけれど、
主上のおゆるしも受けず、
世を捨てることも、
ためらわれてしまって・・・」
というしみじみとしたお話
貴子の上はご病気だし、
伊周(これちか)の君たちは、
配流の最中、
お妹君たちは同じように、
宮中から退ってこのお邸に、
身を寄せていられる
主とたのまれるのは、
中宮お一方だけなのだった
内裏より主上のおつかいは、
右近が折々来るようで、
そのおねんごろな主上のご愛情と、
十二月に迫ったご出産が、
このお邸の唯一の希望だった
貴子の上のご病気は、
重いらしい
ご一族の清照阿闍梨が、
つききりで加持していられるが、
もう食事ものどを通らず、
「伊周に会いたい、
ひと目、会いたい」
とうわごとを仰せられるだけ、
という
伊周の君の流された、
播磨は近いが、
呼び返しまいらせるわけには、
いかない
弟君、隆家の君の配流先の、
但馬からも播磨からも、
使者は繁く来るが、
貴子の上は日一日と、
重くなられるばかりである
十月に入って危篤になられた
播磨と但馬へ、
早馬の使者が立つ
但馬の隆家の君からは、
「飛んでも参りたいが、
いま京へ戻っては、
恥の上塗りになる
ひたすら神仏にお祈りし、
すがるのみ
これ以上、世を騒がし、
人に嗤われたくない」
というきっぱりしたお返事が、
あったそうである
播磨からの返事はなく、
その代り、ある夜、
邸内はひそかなざわめきに、
包まれた
あり得べからざること、
伊周の君は、
夜の闇にまぎれて、
播磨の国から駆け戻られた
公の咎めで、
終生、すたり者になるかもしれぬ、
懸念は覚悟の上、
身はどうなろうとも、
親の死に目にあったことで、
断罪され神仏に憎まれるのなら、
「それはそれで運命だと、
思いまして」
と涙ながらに、
母君の手をとられたという
「これで、
心おきなく死ねます」
と貴子の上は喜ばれたそうである
二日一夜、
邸はひたすら沈黙を守り、
帥殿(伊周の君)の帰京を、
ひたかくしにかくし続けていた
邸の中の小者雑人にいたるまで、
ぴったり口を閉ざして、
秘密を洩らさなかった
・・・はずなのに、
密告者があった
小二条邸を検非違使がとり囲み、
「前代未聞だ
流人が勝手に帰京するとは、
朝廷の権威をないがしろにする
公の温情で播磨にとどめたのが、
裏目に出た」
伊周の君は、
たちまち有無をいわさず、
車に押し込まれなすった
以前と違って、
格段の手荒さであったという
私が見たわけではなく、
邸の中にいたけれど、
検非違使たちがひしと取り囲み、
お姿を見ることさえ、
かなわなかった
中宮のおわす寝殿は、
ぴたりと格子も蔀もおろされて、
外の様子をうかがうことも、
許されない
まるきり罪人扱いで、
このたびは即日、
判決通り筑紫へ送られることに、
なったのだった
都じゅうは、
この噂でもちきりだという
隆家の君を、
「性根の坐った方だ」
とほめる者もあり、
「いやいや、
伊周の君は孝行な方じゃないか
ひと目会って死にたいと嘆かれる、
母君のお心を察して、
わが身はどうなっても、
と帰られたそのお心がなつかしい」
と同情する声もある
そういえば、
噂の一つに、
さきの越前守・親信(ちかのぶ)
の話がある
密告者は親信の子で、
孝義という青年だそうな
彼は伊周の君が、
入京し小二条邸へ入られた、
という情報を手に入れ、
すぐさま朝廷へ売ったという
そのため、
ひと月ばかりして、
加階褒章された
孝義は得々として、
その喜びを言いに父を訪れたが、
親信は声をふるわせ、
息子を叱ったという
「何しに来たのだ?
ここをどこだと思うのだ?
わしはお前如きの薄情者、
人でなしを子に持たん
密告などという、
卑しむべきことは、
町のひさぎ女などのすることだ
あさましい
情けない
そんなことをして、
人々の心を傷つけ、
胸を焼き焦がし、
嘆きを身に負うのが、
いいことだとお前は、
思っているのか」
足蹴にせんばかり、
怒り狂い、ののしったので、
息子は閉口して、
ほうほうのていで逃げたそうである
私は親信という爺さんに、
好意を持った
それこそ人間らしさ、
教養というものではないか、
と思った
やがて貴子の上は、
亡くなられた
伊周の君は、
筑紫で母君の死を聞かれた
その国の大弐は、
何ということであろう、
有国であった
伊周の君の父君、
故道隆の大臣に憎まれ、
位を剥奪された有国は、
道長の君の代になって、
勢力を復し太宰大弐となって、
意気揚々と下っていったが、
そこへまわりまわって、
子息の伊周の君が、
流人として落ちて来られたのだった
有国はおどろき、
しかしねんごろに仕えているという
「世の中は、
めぐりにめぐるもので、
ございますな
有国のご主君は、
亡き兼家公でございました
兼家公のご子孫の君に、
仕えるべく有国はこうして、
ここへ参ったのでございましょう
ご不自由はおかけいたしません」
そういったという話が、
京まで伝えられた
二条のお邸は、
鈍色の裳服に埋められた
そして、
十二月十六日、
喪服を召された中宮は、
若宮をご出産なすった
(次回へ)
・三条の自邸へ帰って私は、
四、五日、呆然と過ごした
中宮からの忍びのお便りも、
ここしばらく途絶えている
式部のおもとからの、
連絡もない
世間から見放されたようで、
私は不安だった
こんな時は、
「春はあけぼの草子」を、
書く気にもならなかった
不安感の底には、
則光の得体の知れぬ悪意があった
結局、あの夜、
彼は何かむしゃくしゃすることが、
あったのだろうと、
思わないではいられなかった
そうして、
ああいう男の機嫌を取って、
暮らさねばならない妻の位置に、
私がいないのを幸福に思った
いや、思おうとした
それでいて、
(もし則光がほんとうに、
もう来ないのだとしたら?)
と思うと、
へんに重い空虚感がひろがってゆく
あんな男、
愛してなんかいないのに
でも、何となく、
正直な心の奥底では、
(しまった!)
という気がするからふしぎだった
(則光を怒らせてしまった・・・)
という自分の落ち度といった気分に、
滅入りこんでしまう点で、
私は私自身に腹を立てていた
そういう日、
顔見知りの長女(おさめ)が、
手紙を持ってきた
中宮からのお使いは、
宰相の君が使う女童が、
持ってくるのであるが、
この長女は中宮職の、
下級の女役人であるから、
もしや、
(ご直筆ではないかしら?)
と思うと胸がとどろいた
果たして、
「少納言の君さま、
宮さまお直々のお文でございます」
と長女は、
私の邸だというのに、
声をひそめる
私は胸とどろかせて、
開けてみた
白い紙には、
何も書かれていない
中に包みがあり、
開くと時期はずれの、
返り咲きの山吹の花びら一つ、
鮮やかな黄色が
その包み紙に、
高雅なご筆跡の走り書き、
墨のかすれも美しく、
まさしくこれは中宮のおん手で、
「いはで思ふぞ」
とただひとことある
あ、これは古歌の、
<言はで思ふぞ言ふにまされる>
(口に出さず恋しく思っている
その方が口に出して言うより、
ずっと思いは深いのよ)
そういう意味の歌を、
暗に引いていらっしゃる
中宮の久しぶりの、
お声を聞く心地がして、
嬉しい上に、
また、このお歌の適切な引喩、
山吹の花びらの洗練された使い方、
すべて私の趣味嗜好にぴったり、
勿体ないことだけれど、
(おやりになるわ、
さすが!)
と共感した思いでいっぱいだった
私は久しぶりに、
心がみずみずしくあふれてきた
これこそ私と中宮の、
共有する喜びの世界
嬉しさに私は、
目が熱くなり涙っぽく、
赤らんでくるのを、
長女に対して恥ずかしく思う
長女はそんな私を見て、
「中宮さまは、
ことごとにつけて、
あなたさまのことを、
お思い出しになられるようで、
ございますよ
早くご出仕なさいませ
皆さまも淋しがっておいでです」
といってくれた
「私はもう一軒、
用足しにまいります
そのひまに、
お返事をお書き下さいませ」
長女が出ていったあと、
私は机に向かったが、
この歌の上の句を度忘れしていた
この古歌は、
私もよく知ってる歌で、
絶えず引用しているのに、
こんなことってある?
のどまで出ているのに、
上の句が出ない
すると、
そばにいる小雪が、
「下行く水の・・・
『心には下行く水のわきかへり』
というのでしょう?」
と不思議そうに教える
私は笑い出してしまった
こんな子供に教えられるなんて
全く則光を笑えない
中宮のお文を頂いて、
私は滅入った気持ちから救われた
それから、三、四日して、
小二条のお邸へ上がった
このお邸はおどろくほど、
小ぢんまりしていて、
その上、
中宮の母君、貴子の上がご病気のため、
加持の僧が入れかわり立ちかわり、
詰めているから、
ごった返している
しかし、中宮のおましどころは、
まるで内裏を思わせるように、
よくととのえられ、
住みやすげにしつらえてあった
中宮は女房たちと、
話していられるところだった
何十日ぶりであろう、
私は心が臆して、
そっと几帳のかげに、
かしこまっていると、
中宮はお目さとく見つけられて、
「あれは新参の人なの?」
と笑われる
中納言の君をはじめ、
宰相の君たち女房も笑う
私は御前にすすんで、
久方ぶりのお目通りのご挨拶をし、
ご直筆のお手紙のお礼を申し上げる
私は、その上の句が、
どうしても出なくて、
召使いの女の子に、
教えられた話を申し上げると、
中宮はまたお笑いになる
「そういうことはあるものよ
ことに少納言みたいに、
博学で歌の道に通じたと、
自他ともに認めている人が、
女の子に教えられる、
などということが嬉しいわ」
と仰せられるものだから、
一座はまたどっと笑う
「少納言は賢いと思えば、
抜けていたりして、
ほんとに面白いわ
あなたの顔をしばらく、
見ないでいると、
物足りなくて淋しいわ」
と言い放たれる明るさ、
全く昔の通りである
ふり仰ぐと、
中宮は二ヵ月あとの臨月を、
控えられておなかもふっくらと、
高くなっていらっしゃるが、
お顔の色も冴えて、
おすこやかそうだった
お髪は短くなっていない
お召物ばかり鈍色だが、
かの五か月前の悲劇、
手ずからお髪を下ろそう、
とされたのを、
その途中でみんなは、
強いておとどめしたという
(次回へ)
・数日後、
夜遅く門を叩く者がある
無礼といっていいほど、
荒々しい
小さい邸なのに、
何だってまあ、
誰だろうと思った
舎人の男が、
起きだしていく
門のところで声がする
その話し声も深夜の訪問、
というのに配慮を欠いている
そういう礼儀知らずの、
使者をよこすあるじの顔を見たい
と私は怒りの虫がおきだしてくる
「滝口のお侍でしたよ」
小雪が手紙を持ってきた
則光からである
「宰相の中将の斉信さまが、
内裏に宿直していられてね、
これが、
妹のありかをいえ、
ときびしいお催促で、
おれは大弱りだよ
とても隠しおおせないよ
教えてもいいか
おれはもう、
ごまかしきれない
お前の言う通りにする
返事をくれ」
というものだった
斉信卿が来られたら、
すぐほかの男も訪れるように、
なってしまう
そんなことになれば、
左大臣派(道長公)が、
どうのこうのと、
うるさい取沙汰をされるのは、
目に見えている
私は返事を書かなかった
その次、
則光が来たときとき、
いたく不機嫌だった
「お前はおれのいうことに、
そうねえ、
といったことがあるか
反省したことがあるか」
よほど虫のいどころが悪いのか、
私に大声を浴びせる
狭い邸なので、
でも、
私はだまっていられなかった
「なんで反省なんか、
する必要があるの、
あたしはあんたの妻でも、
何でもないんだから
あんたをここへ来させるのは、
あたしの好意からなのよ、
ここを借りているのもあたし、
三条の邸もあたしのもの
あんたはお客にすぎないのよ
そこのところを忘れないでよ
なんであたしに指図をするの」
則光は身支度をして、
出て行こうとする
「もうたくさんだ
もうお前の生意気さに、
飽き飽きした
よし、客は退散する
二度と来ない」
なんでこんなことになったのか
へんな具合に展開してしまった
やたら怒鳴れば、
女は怖がって屈服する、
と思っている
私は則光に腹を立てた
則光が、
「二度と来ない」
などと毒づいたこの邸、
急に興ざて私もいやになった
「結構よ、
あたしもここを引き払って、
三条へ帰るわ
あたしもそろそろ、
中宮さまからご催促を、
頂いているんだから、
もう、出なくちゃ」
則光は答えないで、
大声で従者を呼ぶ
「馬をひいて来い
ぐずぐずするな、
出るぞ!」
と従者を叱りつけ、
門を開けさせ、
疾風のように去っていった
私は顔色も白む思いでいる
なんであんなに怒り狂うのやら
「ふん、勝手にするがいいわ・・・」
私は毒づいてみたが、
声に力がなかった
則光が、
二度と来ないといったことに、
妙にこだわっている
まさかあいつが、
ほんとに私と会わなくなる、
とは思えない
則光め、
何やかやいいながら、
私と気が合うらしい
私の邸へ来て、
私としゃべり、
私にやりこめられて、
にやにやしていたではないか
私といるときが、
いちばんくつろぐ、
という顔でいたではないか
則光は私の邸へ来ると、
当然のように、
食事をしたり、
私を抱いたりする
それは彼の当然の権利ではなく、
私の好意からなのだ、
とわからせようとしても、
彼は、
「まあ、まあ」
と図々しくなだめて、
私を黙らせ勝手知った風に、
心安げに私を扱う
つい妥協しているうちに、
私も心の均衡を取り戻して、
精神が安まる
でも、それは、
則光を愛しているからではない
馴れからくる安心感、
それに則光に施しをして、
やっているような優越と満足感、
そういうものだと思っていた
それだから、
則光がもう来ない、
といったって、
どうということはないはずなのに、
私はなぜか心弾まなかった
面白くなく、
うつうつと楽しまない思いで、
横になったが眠れない
次第に則光に腹が立ってくる
(あのバカ、
本気で怒ることないじゃないの
あんなバカは私に対して、
いつも顔色をうかがって、
いるべきなのだ
私のほうがあいつの顔色を、
見ることはないのだわ)
急に、
この隠れ家にいるのも、
つまらなくなり、
私は夜が明けるとすぐ、
この邸を引き払うことにした
(了)
・ところで経房の君が、
この隠れ家へ来られたのは、
中宮側の情報をもたらして下さる、
ためである
「今日、
御前に参るといい風情だったなあ
女房の装束は秋にふさわしく、
少しの乱れもありませんでした」
「御簾の内へお入りになったの?
どなたかの」
「ちがいますよ
こちらから見えたのです
御簾の端っこのあいた所から
寸分のすきもない、
装束をきちんとつけて、
静かに居並んでお仕えしている、
内裏にいられたころより、
いっそう礼儀正しくしていらっしゃる、
皆さんです」
そんな話の好きな経房の君は、
心地よげだった
「それから何やかやと、
話をしているうちに、
誰からともなく、
あなたの噂になりましてね」
「どうせ悪口でしょう」
「おやおや、
聞こえていたんですか」
と経房の君は笑われて、
「いや、それは嘘
ほんとうはあなたのことを、
みんななつかしがっていましたよ
宿下りが長すぎるって
早く会いたいって」
「本心かどうですか」
「おやおや、
この頃どうなすったんです、
拗ねてしまわれて
あなたが早く出仕しないと、
中宮さまもお淋しそうだし、
何よりこんなご境遇で、
侘び住まいしていられる、
中宮さまのお側を、
あなたが離れていられるはずがない、
あんまりつれなく長い宿下りを、
していられるのが、
中宮さまも物足りないと・・・」
「どなたですの
そんなことをいうなんて、
白々しいわ」
「ま、誰だっていいじゃないですか、
ともかく、
口々にそういっていられました
あれはきっと、
私の口からあなたに伝えてほしい、
ということなんでしょうね
皆さんがたは多分、
私があなたの隠れ家を知っていると、
にらんでいられるのですよ」
「だからこそ、
そんなことをいうんです
あなたがお帰りになったあと、
また悪口いってますわよ」
「まあまあ」
経房の君は、
私のように怒りっぽくないので、
やさしい笑みを浮かべられる
中宮のお使いは、
実をいうと三条の留守宅へ、
しばしばそっと来ていた
中宮のご直筆ではないけれど、
「早く参るように」
という勿体ない仰せである
でも私は邸にいないように見せて、
ただ留守番の者に、
「承りました」
とだけ言わせていた
私は朋輩のうっとうしい感情に、
もみくちゃにされるよりは、
経房の君のような、
男友達とつきあっているほうが、
いまのところはよかった
それに私はこのごろ、
やっと書き出している
あの「春はあけぼの草子」である
右衛門の君は、
「あの日のこと」は、
一切口外すまいと言い合った、
と自慢らしくいったけれど、
私の書く「春はあけぼの草子」だって、
悲しいこと辛いことは書いていない
いや、
私の書くものを読んでもらえば、
悲しいことも辛いことも忘れ、
「かがやく日の宮」としての、
中宮のおん姿ばかり、
印象にとどめられる、
それだけの力はあるはずだ
いや、
そうなっていなければ、
いけない
でも一つ、
心にかかること
それは中宮のお気持ちを、
押し測って私がひそかに、
苦しんでいること
それは、
主上に新しい女御が入内された、
ということだった
「ねえ、
弘徽殿の新女御は、
どういう方ですか・・・
主上のおぼえめでたくて、
いらっしゃるの」
という時、
私は女御に嫉妬していた
中宮になりかわって
「こんど顕光の大臣の姫も、
お入りになりますよ
これは承香殿の女御と、
もうしあげるらしい」
「やっぱり・・・」
「しかし主上はおとなでいらっしゃる
弘徽殿の女御も、
ひととおりお扱いになって、
うとうとしくなく、
というところでいらっしゃるようです
母君、東三条女院は、
どなたでもいい、
御子をもうけられた方に、
肩入れいたしましょう、
と仰せられていると、
噂に聞いています
でも、主上は、
新しい女御がたが、
入内されるにつけても、
中宮を恋しくお思いになるらしい、
と
主上づきの女房から聞きました
ほら、あの右近が、
そっと教えてくれたんですよ」
「そうでししょうとも」
私は心が明るんで嬉しかった
「中宮さまは、
それをご存じかしら?」
「きっと主上と中宮の間には、
人知れずお文のやりとりが、
あるにちがいないですよ」
「そうね、
私たちが心配することは、
ないかもしれない」
私は経房の君が帰られても、
心の弾みが失せやらず、
ついおそくまで灯をともして、
筆を走らせるのだった
この隠れ家を訪れる、
もう一人の男は、
ここを見つけてくれた則光である
この男は三条の邸と同じように、
ここへ来るとくつろぎ、
かつ、今も私を、
妻のように扱う
「めしはあるか、
酒は?」
などいって、
女童の小雪をあわてさせる
則光には、
私の居所を誰にも、
知らせないで、と、
かたくいってあるのだが、
「宰相の中将が参内されてね、
昨日のことだよ」
宰相の中将とは、
斉信卿のことである
参議に昇進なさったので、
以前、頭の中将でいらした、
ときのように毎日、
内裏にはいらっしゃらない
斉信卿とも仲がよかったのに、
もうずいぶん長くお会いしていない
「斉信卿が言われるんだ
『則光、お前はお兄さまだろ、
妹のいる所を知らぬわけは、
あるまい
言えよ』
としつこく言われるのには、
参ったよ」
「それで言ったの、
ここを」
「いわないよ、
口止めされているもの」
則光は口をとがらせていう
「ところがしつこく問われるんで、
困っちまった、おれ
うそがつけないところへ持ってきて、
身におぼえあることを、
知らぬ顔で通すには、
ずいぶん心苦しいことだよ」
「絶対、ここのこと、
いっちゃだめよ」
(次回へ)