むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

ありがとうございました。

2021年12月27日 08時38分50秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










・昨日で、田辺聖子さんの「残花亭日暦」読み終えました。
おつき合い下さったみなさま、長い間ありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

写真の黄バラは、鉢植えだったのを、
庭の片隅に地植えにしましたら、元気に育って、
今の時期、開花してくれました。
寒中なので花期が長いのも嬉しいです。

「残花亭日暦」を読み終えた昨日は、
奇しくも、大河ドラマ「青天を衝け!」の最終回でもありました。

歴史、特に日本史に興味と関心のある私は、
大河ドラマは初回から見るのが恒例なのですが、
大抵は途中リタイアがほとんどでした。

ところが今回は最終回まで見終えることが出来ました。
主人公を演じられた俳優さんもよく知らなくて、
でしたが回を追うごとに見事にはまりました。

徳川家康も最終回まで出番があり、
ドラマに色を添えておりました。

また、最後の将軍、徳川慶喜役の草なぎくんは、
まさに適役ですばらしいと思いました。

はまった大河ドラマも終わって、
でも、やはり、田辺聖子さんとのご縁をつなげてゆきたい、
と思いまして、私の手もとにあります、
中公文庫「大阪弁ちゃらんぽらん」を読んでいこうと思います。

よろしければおつき合い下されば幸いです。






          

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「残花亭日暦」  最終章

2021年12月26日 09時10分20秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月25日(金)

大阪リーガロイヤルホテルで五年続いている古典講演の日。

彼の介護、そして死んだことは、長いなじみのみなさん、
よくご存じのことではあり、ご心配かけまして、という感じで、
彼の最期とお葬式の話をした。

今日はお花やお香典を下さった方もあった。
お葬式後の講演デビューとしては上々。

明後日は二七日(ふたなのか)だが、
二十九日は福岡で講演がある。

前途山積する仕事を思えば涙の出るヒマもなく、
「おじさん、忙しいんだぜい、アタイは」と彼に言う。


・2月3日(日)

三七日(みなのか)、日曜日なので皆、集まってくれた。

マリや、長女ののところの中学生のフミちゃん、
若いマサくんやユキさんも来てくれて、
家中、若々しい気分がみなぎり、
法事が明るくなってよかった。


・2月17日(日)

五七日(ごなのか)である。
その上、お仏壇の入魂式をして頂かなくてはならない。

駅前の仏壇屋さんで選び、運んでもらった。
今日びらしく、洋間にも適(あ)うシンプルな仏壇。

過剰装飾は一切ない。
壁の一隅にうまくはまった。

浄土真宗は大半、簡潔な仕様で、仏像もわが家のは一切なし。
阿弥陀さまの小さなお絵像、「南無阿弥陀仏」のお軸があるのみ。

お坊さまのお経とともに、ローソクがしきりに燃え立ち、
それは私にも異様と思えるくらい、意志的な燃え方をしていた。

読経の続くうち、なぜか私の眼に涙があふれ、
悲しくて泣くのではなく、かといって不快な気分はむろんなく、
それだけ気持ちのいい涙だったが、涙は流れ続けた。

彼の死に目にも、死後でも、こんなに泣いたことはないのに、
私はハンカチで涙を押さえながら、この異変を冷静に認識していた。

お寺さんを送り出してから、身内の一人のおばさんは言った。

「おローソクがパチパチ燃えてましたやろ、
スミオさん、喜んではりましたんや」

ミド嬢も昂奮して、

「ええ、そうですわ。
すごい大きな 気 の流れがうず巻いて」

「気?」

「・・・としか、いいようのない感じ。
とても強いものを感じましたわ。
厚みがあるんです。それがうず巻いて、ゴ~ッという感じで、
嬉しそうに仏壇へ入ってゆかれました」

「なに?それ」

「大先生の気ですわ。ハッキリ聞こえました。
『セイコ、ありがとう』って」

「なんで、そこへ、あたしが出てくんの?」

「お仏壇に祀ってもらえて、
大先生が先生にお礼を言ってらっしゃるんです」

「そんな感じでしたなあ」

と身内のおばさんも、
黒ビーズの信玄袋からハンカチを取り出し、目に当てた。

「ようしてもろて、私らからもお礼言います。
スミオさん、それ言いたかったんでっしゃろ」

どうやら最も霊感の強いのがミド嬢で、
おばさんはその次、私が一番、感度が鈍い、
そんな私でも、一種不可解な感動に打たれたからこそ、
出たこともない涙が出たのであろう。


・2月24日(日)

六七日(むなのか)

この月の忙しいことといったら、
十日は徳島へ講演、千三百人入って、ぎっしり。

主催者の徳島銀行さんにお礼をいってもらえた。
この時、銀行のトップの方は、
大人の礼儀としておっちゃんのお悔やみを言って下さった。

十三日は梅田へ。
今日集まったのは、
東京から帰ってきた私の弟と妹一家、長女一家。

長女は帰りしな、手紙と金一封を置いて帰った。
手紙には自筆で、
「本当に長い長い間、お父さんをみて頂いて、
ありがとうございました。そしてお疲れさまでした」

十万円入っていた。

仏壇のローソクの気より、
こちらの方が私はコタエて、涙が出た。


・3月3日(日)

満中陰

昨日、羽曳野までタクシーでゆき、
七百人の前で「源氏物語」の講演。

暖かく晴れた日で、聴衆の反響はとてもよかった。
往復の時間が長くかかり、くたびれた。

このごろ、いつも疲労感がとれないが、
今日は快晴の納骨日和。

満中陰とて子供たちの参加も多い。
お坊さまの読経のあと、みんなで焼香。

お坊さまを囲んで一同、ホテルで昼食。
春らしい、タラの芽の天ぷら、豆ごはん、鯛のお刺身、
など、微妙な日本料理の味なんかわからないだろうと思われる、
小中高生たちが「とってもおいしい!」なんて言う。

午後、茨木市にあるお墓へみんなで納骨に。
横長の黒い御影石に「俱会一処(ぐえいっしょ)」とある墓石。
裏の「川野純夫」の字の赤はすでに消されていた。

見晴らしのいい高台の端で、
遠く都会のきらめきが早春のもやの底に望まれる。

私はお骨の一部を小さい壷に分けていた。
彼は奄美生まれの男だから、いつか奄美へ行くことがあったら、
あの青い海にお骨をまいてやろうと思う。

孫たちは次々におじいちゃんの墓に手を合わせている。
孫に関心があったとは思えないような彼であったが、
内心はどうだったか、わからない。

血が濃いいくせに、その愛情を表現するというような、
気持ちの小まわりはきかない人だった。

単なる邪魔くさがりかもしれないが、
彼一流のひそかな自制の美学だったかもしれない。






          


(了)

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「残花亭日暦」  24

2021年12月25日 09時17分12秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月21日(月)

葬式のあとが、こんなに多忙とは。
朝日、日経の新聞連載は待ったなし。

何より急がれるのは「文芸春秋」さんに求められた、
「喪主挨拶」のテープ起こし。原稿用紙に書き写すと十五枚あった。
すぐヒワちゃんいFAX。

今日の午後、姪のマリが来たので、
夕べ整理しておいた写真を渡す。

彼の写真集を作ってお世話になった方々、
(一緒に写真に納まっていられる)に配ろうと思ったのだった。
「カモカのおっちゃん写真集」とした。

写真集は二種類。
身内や子供たちにやる「お父さん写真集」

これは家族旅行や、お茶の間での家族談笑の図、
それに一家で、お正月に近くの神社へお詣りした時のものやら。
アルバムからはがし、説明をつけた。

一方、友人、知人に配る「カモカのおっちゃん写真集」
の扉に私はこう書いた。

「どの写真も、おっちゃんは笑っているか飲んでるか唄ってるかです。
つくづく南西海上諸島生まれのヒトだなあ、と思います。
でも、おっちゃんのためにひとこと、仕事にも真面目で熱心でした。
おっちゃんは皆さんが大好きでした。
おっちゃんの友情のあかしに、
ささやかな写真集をお手もとに贈ります。聖子」

彼の若い頃は、真面目な会合の集合写真で、
プライベートなスナップではないので、唇をきちんと引き結んでいる。

この頃の彼を私は知らないわけである。
私と結婚後は、にわかに写真量が多くなり、
しかも笑顔の写真が多くなった。

思うに、昭和三十年代後半から、大衆が簡便に扱える、
安価なカメラがどっと出まわったせいだろう。

近所の医師(せんせい)がたとゴルフ、
学友との同窓会、彼は心おきなく笑っている。

神戸の家でも伊丹でも、
仕事の打ち合わせが終るや否や、酒になる。

彼は必ず酒ビンを抱えて、
「すみましたか?」とニコニコしてやってくる。
奥まった席が一つ、彼のためにいつも空けてある。
彼がそこへ坐ると、酒宴が始まるのであった。

取材旅行も彼の仕事の都合がつく限り、同行してもらった。
連載の終わった打ち上げ会なんか誘うと喜んで来た。

どの写真の顔も喜色あふれんばかり。
もともと顔はコワモテだが、人づきあいの悪い男ではなかった。

作り笑いや、お愛想笑いではない、
こんな笑顔になるために人は年を重ね、人生はあるのだ、
と思わせられる顔、人生の後半をそんな環境に置いてやることが出来て、
つくづくよかった、と思う。

昭和六十年代はじめ、健康を害して診療所を閉めた時も、
「思い残すことはない」と彼はきっぱりと言っていた。

町内の医院をみると、たいてい世襲で息子さんが若先生になって、
跡を継いでいられるが、ウチは息子たち、壻たちみな、
サラリーマンになった。

しかし、医業は弟が継いだ。
十六、七も年の離れた弟の、お父さん役を、
彼は若年からさせられていた。

さて、そんな写真集を私は印刷屋さんで頼むつもりであったが、
「あたしがパソコンで作ってあげる」と姪は言う。

私はキカイに弱くて、携帯も持っていない。

「ただちょっと、ヒマがかかるかもしれない。
急がないわよね?」

「ぜんぜん、あんたも忙しいんでしょ」

姪のマリは勤務歯科医で、夫の内科医ともども、
多忙なはずなのに、なぜか近ごろの若い人々は、
忙しそうな顔をしていない。

私のような年代の人間のほうがいつも追い立てられる感じで、
イライラしている。人生のゴール間近と思うせいかしら。

「ううん、そんなことはないけど、編集のレイアウト考えたりするから」

とたくさんの写真を持って帰ってくれた。
若い頃の写真から、彼のラストバースディとなった、
八月三日のパーティ写真まで。

そういえば、八月三日にちなんで「ヤミの会」というのを、
担当女性編集者を集めて毎年、していた。

それから何かにつけ、東京、大阪でパーティをした。
編集者たちが盛大に集まって下さった。

すみれのパーティは私の還暦パーティ。(1988年 東京山の上ホテル)
二人三脚パーティは、銀婚式パーティ。(1991年 伊丹第一ホテル)
夢200パーティは、著書二百冊のお祝い。(1993年 東京山の上ホテル)
桃花パーティは、私の古希のお祝い。(1998年 伊丹第一ホテル)

何べんも人が集まって下さった。
遊びに遊んで、彼を七十七才まで生かせてやったのだから。
冥界(あっち)で彼も「そういこっちゃ」とうそぶいているだろう。






          


(次回へ)

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「残花亭日暦」  23

2021年12月24日 09時27分10秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月20日(月)

藤本さんが直木賞を受賞されたとき、
神戸から西宮へ車を飛ばしてお祝いにかけつけたが、
そのときのおっちゃんの言。

「どんな気分ですねん。
長年の便秘が解消したよな感じやろな」と、

「豪快に笑い、コップ酒を飲み干されたものです」

藤本さんの弔辞に、今まで水を打ったように森厳な葬儀場が、
(二百~二百五十人の方が参列して下さった)
この辺りからクスクス笑いがもれそうな暖かな空気になり、
和やかに明るくなってきた。

あるとき、東京の会場で会ったら、
おっちゃんはもう車イスだったが、
たまたま聖子夫人が側にいなかった。

「あなたは急に私の腕を引き、
『物書いて生きていく、ちゅうのは、ま、辛いことでっしゃろ?
違いますか』という言葉を口にされました」

藤本さんはどう答えていいかわからず、迷っていられると、

「な、そうでっしゃろ、見ててもわかるわ」

とおっちゃんは言ったという。そこで藤本さんは、

「ま、そら、いろいろとナンギなことはありますが、
誰も助けてくれるわけでもない仕事やし」

おっちゃんは、「そうやと思う」

そこへ私が帰ってきたので、「おい、帰るか、もう!」
と大声で叫んだと。

彼が私の仕事のことを、
そんな風にみていたなんて思いもしなかった。

私もまた、自分が好きでやってる苦労、と思うから、
愚痴や弱音は一切吐かず、彼にも見せてないつもりだったけど。

「巨体に照れを満載したダンプカーのカモカのおっちゃん、
誰もが思い出を抱いて見送るのが今日なのです。

平成十四年 一月十六日  藤本義一」

それで、喪主挨拶で、私はまず、藤本さんにお礼を言った。

「祭壇の彼も大笑いしているので、
こんな席ですが、おかしければお笑い下さい」

とあらかじめ言っておいた。

新聞記事には、カモカのおっちゃん死去、と出たので、
まず、カモカの説明。

挿絵画家の高橋孟さんが、モデルがないと描きにくい、
とのことで、手近にいた飲み友達のおっちゃんを拉っして描かれ、
それで私の『週刊文春』の連載エッセー「カモカのおっちゃん」が、
即、そのまま川野純夫がモデルと思われてしまったいきさつ。

彼のおおどかな明るい性格は奄美生まれのせいかも、という話。
彼の先妻で作家の川野彰子さんとの短いつきあい、などを話した。

私が昭和三年生まれ、彼は大正十三年、
同時代の嵐をかいくぐって来た戦友なので、
話題は尽きなかった。

「いっそ、結婚しよう、その方がおしゃべりしやすい、
という話になりました。しかし彼は四人の子持ち男、
私は小説書き、家事と小説、どっちも中途半端になってしまうわ」

と言いましたら、川野いわく、

「中途半端と中途半端が二つ寄ったら、満タンになるやないか」

嵐の日々だったけれど、時がたてば子供は独立して家を出ていく。
家事は少し楽になったが、私の仕事はいよいよ忙しくなり、
食事を作ることも出来なくなった。

「パパ、ごめんなさい。
駅前のお寿司屋さんで食べてきて」というような次第。

川野はそんなとき、怒る男ではないので、素直に出ていく。
機嫌よく帰ってきて、あそこのトロは旨いなあ、なんていいながら、
寝室へ入ってぐっすり寝てしまう。(笑)

せっせと書いている私に、
せめて巻寿司の一本でも持って帰ってくれるのか、
と思いましたが、全く気がつかない。(笑)

また子供たちがそれぞれ市民生活を営み、子供を育て、
今、こうして喪の席に並んで坐ってくれたことも、
川野には嬉しいことだろうと思います。

本当にみな様、川野純夫にお寄せ頂きました、
暖かい熱いお志、友情、ありがとうございました。

私はこれを何も見ないでしゃべったのだった。
喪主挨拶はそういうものだろうと思って。

ところが、一般の焼香が始まったとき、
さっきの喪主挨拶を『文芸春秋』本誌に掲載させてほしい、
とヒワちゃんが言った。

「えっ!メモなしにしゃべったのに・・・」

ミド嬢が、藤本さんの弔辞をテープに入れたあと、
ついでに私のも録っていたことがわかり、
テープ起こしをして送る約束に。

お棺の中は花でいっぱい。
私は眠っているような彼に、心で言う。

「いや~、人間、葬式でも楽しめるもんやねえ、
と笑ってもらったでしょうが」

私があとへ残ってやることが出来てよかった。
もし、彼が残ったら、台車に乗せられてきれいな私の白骨が出てくるのに、
堪えられなかったんじゃないかな。

係りのおじさんは、骨つぼへ入れる順番を指図してくれる。
外は氷雨で寒いが、お骨はなお、ほの暖かい。

とてもきれいに大切なお骨がそろったね、
おじさんはほめてくれる。

再び会館へ戻り、身内だけでお経をあげてもらう。
還骨経、というそうだ。






          


(次回へ)

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「残花亭日暦」  22

2021年12月23日 08時45分56秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2002年(平成14年)


・1月20日(日)

一月十六日、幸い、晴れの葬式日和になった。
各出版社の方々、近所の友人たちが手分けして、
受付などの仕事を分担して下さる。

弟や息子たち、中老年の一族の男たちがいるので、
私はじっと主席に坐っているだけでいい。
自分主催ながらこんな楽なセレモニーははじめて。

弔電をたくさん頂いたのだが、
作家の弔電、数通のみ代表で読ませて頂くことになった。

ベテランの係りの方のお声はよく透るのだった。

「人生の並木道を思い出します。
ご冥福をお祈り申し上げます」は津本陽さん。
津本さんは彼とも古い友人で、
飲むとよく“泣くな妹よ 妹よ泣くな・・・”を歌ったから。

「カモカのおっちゃん シーユーアゲイン」は宮本輝さん。

「突然の訃報に接し 言葉もありません。
以前、金沢へお越しになって、ご一緒に食事をした時のことを、
夢のように懐かしく思い出します。俱会一処、共に浄土にまみえん」
は、五木寛之さん。

「肩を並べて三人で新地を歩いた日を偲び、
心よりご冥福をお祈り申し上げます」は黒岩重吾さん。

「御良人様のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。
日ごろより素晴らしいお二人と羨んでおりました。
さぞかし、お力落としのことでしょう。
充分に御自愛下さいますよう、お祈りいたしております」
は、阿刀田高さん。

神戸の友人を代表して、ノコこと小山乃里子さん、
「カモカのおっちゃん、長いこと遊んでもろておおきに。
あなたの頑固さ、優しさ、豪快さ、忘れません。
あの世とやらで、またカモカ連で踊りましょう。
心からの感謝とお悔やみをこめて」

壇上の写真のおっちゃんは白い花に囲まれ、
呵々大笑している。

藤本義一さんの弔辞はしめやかに真情こもり、
すてきなものだった。

藤本さんは封筒から原稿用紙の束を抜き出し、
ひびきのいいお声で静かに読まれる。

「弔辞。
カモカのおっちゃん、
いつもの通り、カモカのおっちゃんと呼ぶことをご寛怒下さい。
まさか、カモカのおっちゃんの弔辞を読むとは思っていませんでした。
カモカのおっちゃんの豪快さは不変のものだと信じていました。
南国の南風から生まれた剛毅なおっちゃんの気風は、
常にその言葉の端々にありました・・・」

藤本さんは、おっちゃんと会ったのは、
昭和四十三、四年だったと言われる。

神戸のパーティ会場で、
「川野やが」と凄み、鋭い目つきでにらみつけ、

「アンタだけやで。
うちの妻に向かって“おセイさん”と、気安う呼ぶのは。
ほかの人はそう呼ばへん」

藤本さんは腹を立てて言い返す。

「いけまへんか。
あんたよりずっと前からおセイさん知ってましたんやデ。
十年も前から知ってたんですがな」

するとおっちゃんは急に凄みの消えた顔になり、
濃いまゆが下がって、照れた顔になり、

「あ、そういうこっちゃなあ。
ほな、ま、文句は言えんわ、な」

と頭をかきかき恐縮に身を縮めて、大きな頭を下げた。
藤本さんが「なんや、恨んではりますのか」と言うと、

「今の今まで恨んでたけど、帳消しにしよや」

ぼそぼそとおっちゃんは言った、とのこと。

藤本さんの弔辞は淡々と軽快に続く。






          


(次回へ)

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