2002年(平成14年)
・1月21日(月)
葬式のあとが、こんなに多忙とは。
朝日、日経の新聞連載は待ったなし。
何より急がれるのは「文芸春秋」さんに求められた、
「喪主挨拶」のテープ起こし。原稿用紙に書き写すと十五枚あった。
すぐヒワちゃんいFAX。
今日の午後、姪のマリが来たので、
夕べ整理しておいた写真を渡す。
彼の写真集を作ってお世話になった方々、
(一緒に写真に納まっていられる)に配ろうと思ったのだった。
「カモカのおっちゃん写真集」とした。
写真集は二種類。
身内や子供たちにやる「お父さん写真集」
これは家族旅行や、お茶の間での家族談笑の図、
それに一家で、お正月に近くの神社へお詣りした時のものやら。
アルバムからはがし、説明をつけた。
一方、友人、知人に配る「カモカのおっちゃん写真集」
の扉に私はこう書いた。
「どの写真も、おっちゃんは笑っているか飲んでるか唄ってるかです。
つくづく南西海上諸島生まれのヒトだなあ、と思います。
でも、おっちゃんのためにひとこと、仕事にも真面目で熱心でした。
おっちゃんは皆さんが大好きでした。
おっちゃんの友情のあかしに、
ささやかな写真集をお手もとに贈ります。聖子」
彼の若い頃は、真面目な会合の集合写真で、
プライベートなスナップではないので、唇をきちんと引き結んでいる。
この頃の彼を私は知らないわけである。
私と結婚後は、にわかに写真量が多くなり、
しかも笑顔の写真が多くなった。
思うに、昭和三十年代後半から、大衆が簡便に扱える、
安価なカメラがどっと出まわったせいだろう。
近所の医師(せんせい)がたとゴルフ、
学友との同窓会、彼は心おきなく笑っている。
神戸の家でも伊丹でも、
仕事の打ち合わせが終るや否や、酒になる。
彼は必ず酒ビンを抱えて、
「すみましたか?」とニコニコしてやってくる。
奥まった席が一つ、彼のためにいつも空けてある。
彼がそこへ坐ると、酒宴が始まるのであった。
取材旅行も彼の仕事の都合がつく限り、同行してもらった。
連載の終わった打ち上げ会なんか誘うと喜んで来た。
どの写真の顔も喜色あふれんばかり。
もともと顔はコワモテだが、人づきあいの悪い男ではなかった。
作り笑いや、お愛想笑いではない、
こんな笑顔になるために人は年を重ね、人生はあるのだ、
と思わせられる顔、人生の後半をそんな環境に置いてやることが出来て、
つくづくよかった、と思う。
昭和六十年代はじめ、健康を害して診療所を閉めた時も、
「思い残すことはない」と彼はきっぱりと言っていた。
町内の医院をみると、たいてい世襲で息子さんが若先生になって、
跡を継いでいられるが、ウチは息子たち、壻たちみな、
サラリーマンになった。
しかし、医業は弟が継いだ。
十六、七も年の離れた弟の、お父さん役を、
彼は若年からさせられていた。
さて、そんな写真集を私は印刷屋さんで頼むつもりであったが、
「あたしがパソコンで作ってあげる」と姪は言う。
私はキカイに弱くて、携帯も持っていない。
「ただちょっと、ヒマがかかるかもしれない。
急がないわよね?」
「ぜんぜん、あんたも忙しいんでしょ」
姪のマリは勤務歯科医で、夫の内科医ともども、
多忙なはずなのに、なぜか近ごろの若い人々は、
忙しそうな顔をしていない。
私のような年代の人間のほうがいつも追い立てられる感じで、
イライラしている。人生のゴール間近と思うせいかしら。
「ううん、そんなことはないけど、編集のレイアウト考えたりするから」
とたくさんの写真を持って帰ってくれた。
若い頃の写真から、彼のラストバースディとなった、
八月三日のパーティ写真まで。
そういえば、八月三日にちなんで「ヤミの会」というのを、
担当女性編集者を集めて毎年、していた。
それから何かにつけ、東京、大阪でパーティをした。
編集者たちが盛大に集まって下さった。
すみれのパーティは私の還暦パーティ。(1988年 東京山の上ホテル)
二人三脚パーティは、銀婚式パーティ。(1991年 伊丹第一ホテル)
夢200パーティは、著書二百冊のお祝い。(1993年 東京山の上ホテル)
桃花パーティは、私の古希のお祝い。(1998年 伊丹第一ホテル)
何べんも人が集まって下さった。
遊びに遊んで、彼を七十七才まで生かせてやったのだから。
冥界(あっち)で彼も「そういこっちゃ」とうそぶいているだろう。