むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8、もっと広い世の中 ④

2022年07月17日 08時01分22秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私たちの世代は、
暗い無菌培養の檻から自由な世界へ解き放たれたから、
幸せだったと思っている。

それにくらべ、
現代の若者は、もしかすると、
自由世界からこんどはあべこべに、
忌わしき鋳型の中へ追い込まれ、
日本の優越独善だけを信ずる土人形として、
次々、社会へ送り出されるのではないか、
鋳型人間の想像を絶する世界が、
そこに広がっていても、
とうてい信ずることは出来ず、

「そんなんウソやろ?」
「日本がそんなことするはずない」

と言い続けているかもしれないのだ。

前車の覆るは後車のいましめ、
というのはこういうことをいうのである。

今の時代は、そんな素朴なことはない、
情報量の多さは半世紀昔とくらべものにならない、
と言う人もあるかもしれないが、
それは人の心の奥深い幻妖の闇を知らぬ人、
思想統制、自由凍結の冷厳な社会の怖ろしさを、
知らぬ人である。

いったん国家が自分の意志をもち、
ある方向に歩み始めたら、
その巨大な権力は人の心をマヒさせてしまう。

人々はわれとみずからその闇へ身を投じ、
情報量の多寡はもはや問うところではなく、
「目はあいても何も見えず、耳は何も聞かない」
というのはここのところをいうのだ。

その状態の凝集せるもの、
象徴的なものが、ある種の政治団体、思想集団である。

我々は左翼であれ、右翼であれ、
すでに何十万何百万の若者が、
「目はあいても何も見えず。耳は何も聞かない」
という状態に陶酔し、みずから身を滅ぼすのを見た。

戦争中の右翼がそうであり、
戦後の、連合赤軍事件をピークとする、
極左革命思想の若者たちがそうである。

永田洋子らに死刑判決が下ったけれども、
すべてはそれで終わったのではなく、
第二第三の永田洋子らが、
これからも輩出するかもしれないのだ。

そういう運命をみずからの意志でえらびとった、
と彼らは声高くいい、
自足してみじかい生を終えるかもしれないが、
われわれ大人からみれば、
もっと広い視界で生きることを志して欲しい、
と思わずにはいられない。

暗い無菌培養の温室からぬけ出して、
外の太陽にも当り、風にも吹かれ、
さまざま有益無益のバイキンに打ち勝つ力を、
たくわえてほしい。

(ほら、これが広い広い世の中だよ)


(目かくしをお取り、
大きく息を吸い込んでごらん。
誰も若者に敵意など持ってやしない、
敵意を持つには若者は美しすぎ、若すぎる。
尻ごみしないで、たじろがないで、
身構えないで、世の中を見まわしてごらん。
いろんなものを知り、
いろんな考え方があることを発見してごらん)

私たちは先輩として若者に、
そういいたい。


それでなければ、
永田洋子たちがあまたの犠牲を出して、
自滅していった哀れさが、
活かされないではないか。

人の子の親なら、
あの一連の学園紛争、
疑似革命闘争で傷つき死んだ若い子らに、
涙をそそがないでいられようか、
彼ら彼女らは、われらの息子、娘ではないか。

彼らの犠牲を無駄にしないためには、
ひろい視野、客観的歴史事実を事実としてみとめる力を、
若者に養わせてやるべきである。

「侵略」を「進出」といいかえて、
若い世代の史観をあいまいにし、
盟邦となるべき韓国や中国の同世代の若者に、
反発させて国際社会の輪を狭くする、
そんな同じあやまちを、
二度とくりかえしていいものだろうか。

ある種の政治集団、思想集団の狂気と狷介を、
国家自体が意志して持ってしまうことは、
おそろしい。

「侵略」を「進出」といいかえても、
かつての日本軍が犯した悪業は消えない。

日本人はドイツ人のアウシュビッツを責められず、
ドイツ人はアメリカ人の原爆投下を責められない。

人間の心の奥の悪を直視することなしに、
平和はあり得ない。

国家が政治的配慮で削除したり、
歪曲したりすることのない、
歴史や社会を若者に教えてやりたい。






           


(了)

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