「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ⑬

2023年01月24日 09時12分37秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・戦争中は死者の名前さえ葬られた。
どこで誰が、何人死んだかも一切不明である。

人々は帰って来ない家族を、
出先で空襲に遭遇したものとあきらめ、
外出した日を命日にしている。

戦争と地震と、どちらが悲惨で、
どちらが軽微ということはいえない。

その場の体験者の心ごころによるであろう。

でも少なくとも長田の焦土には花があった。
コップの水が死者に手向けられていた。

戦争中よりもやさしい、
人間らしい眺めだと思う所以だ。

私は震災から二十日あまりのち、
大阪朝日新聞に寄せられた投書(1995・2・5)
を忘れられない。

神戸の主婦M・Uさん(33)
新聞には記名されているが、
私はあらかじめご諒解を得るひまがなかったので、
ここでは頭文字で。

「一歳六か月でした」というタイトル。

「私の息子は上仲大志(うえなかたいし)といいます。
一九九三年七月十五日、西宮の助産院で生まれてきた、
彼の第一声は超ハスキーボイス」

元気でかわいい赤ちゃんだった。

「日増しにかわいさを募らせる彼との生活は、
驚きと感動の連続でした。
見知らぬ人が足を止めて声かける時、
彼はいつも満面笑顔でこたえていました。
声をかけた人の表情も、
穏やかに幸福そうにゆるんでいくのです。
なんてすてきな力を身につけているのだろうと思いました。
素朴で純真。
私にとって、とびっきり上等の息子でした。

でも、その息子はもういない。

一九九五年一月十七日、
息子は私を残して、
多くの人といっしょに逝ってしまいました。
わずか一年六カ月の人生をあっという間に、
駆け抜けていった息子。
私と周囲の者の心にぽっと温かい灯をつけて。

どうぞお願いです。
これを読んで下さった方に。
上仲大志という幼い命がこの世にあったことを、
ほんの少しでもいい、思って下さい。
短い命を一生懸命生きた彼のことを、
今の一時でいい、
その名前を口にして心に思って下さい。
どうぞ、お願いします」

このUさん自身、
左腕を骨折して入院中で、
入院先からの投稿だった。

この文章は読者の感動を呼び、
一週間に五百通もの励ます手紙が、
寄せられたそうである。

それらの記事と同時に愛らしく笑う、
太志ちゃんの遺影も紹介された。

Uさんは幼い息子によって、
「生きていく意味は、
人と人のつながりの中から生まれてくる」
ことを教えられる。

「息子を失ったかなしみは深く、
その深さには底がありません。
だけど、生まれてきてありがとうと彼に言いたいし、
彼の母親にふさわしい生き方をしたいと思っています。
私は元気です」

~~~その名前を口にして心に思って下さい~~~

大志ちゃんのママは、
その名が震災の思い出がうすれるとともに、
人々からも忘却されるのに堪えられなかったのであろう。

名こそ人間の存在証明で、
名を弁別するのが愛のはじまりである。

テレビの画面に、新聞の(亡くなった方)欄に、
延々と続く五千有余人の名。

それこそ愛のはじまりだ。

阪神大震災は、
大震災前、大震災後、というふうに今後、
あらゆる点で文化の一つの区切りになると思うが、

<人が助け合うということ><愛、そのこころ>の、
紀元元年になるものであってほしい。






          


(次回へ)

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