むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

36、痴呆家の人々

2022年04月09日 09時00分25秒 | 田辺聖子・エッセー集










・このまえ、大阪高検の検事長が、
「関西の裁判所で刑事裁判の寛刑が目立つのは見過ごせない」
と発言していた。

つまり、刑が、関西では手ぬるすぎるということであろう。
きびしけりゃいい、というものでもないと、
私は思っているのだが。

アメリカで人種差別的な罪名で裁判にかけられた若者に、
裁判長の判決は、
人種差別の歴史を勉強して論文を書くこと、
だったという。

そのぐらい弾力のある裁判というのは、
とても日本ではむつかしいから、
それよりは寛刑のほうがいいと思うが、
どうなんだろう。

こんど大阪弁護士会の会長になられた鎌倉利行氏は、
上の検事長の発言につき、それはつまり、

「関西では裁判官と弁護士がしっかりしているということで、
とくに無実判決の多さは『疑わしきは罰せず』
の鉄則を大事にしている証拠で、大いに結構」

といっていられるのは(朝日新聞、1986・4・3)
納得!という感じで賛成である。

いやしかし、大阪というのは、
まあ、そら、お上をアホにしよるからねえ。
検事長が憤激するのも無理ないところがあるのだ。

大阪府警が摘発した愛人バンクの勧誘パンフに、

「ほんとうに素人娘ばっかり!
看護婦、OL、女子大生・・・
いないのは大阪府警の婦人警官だけです」

と書いてあったと巷間の噂、
そのパンフが大阪地検の検事正の家まで送られてきたというから、
もう無茶苦茶で不埒千万である。
けしからん町であるのです。

しかし、かと思うと、ヘンにマジになったりして、
漫才師がすぐ、議員になりたがる。

医者になるとか、いうのはよい、
しかし国会議員は、あれはなぜかふしぎな所があるもので、
今まで何の気もなしに、ヤス・キヨを笑っていたが、
急に、
(そうか、あれはみな、国会議員になるためやったのか)
と思うと、笑わされていたこともだまくらかされたような気がして、
我々ファンとしては釈然としない。

医者やマスコミ関係、教師、主婦、
などという人が国会議員になるのは結構なのであるが、
漫才師が国会議員になるというのは勿体ない。

いや、これは国会議員に対して差別発言になるか。

漫才師は漫才やっとったらええ、
いや、こういうと、漫才に対して差別になりますねえ、
ややこしい。

漫才が国会議員になるのは、
豆絞りの手拭いを雑巾にするようなもので、
豆絞りの手拭いだったら、
捻って頭に巻いたら阿波踊りが踊れるし、
お祭りのお神輿も担げるし、
それを雑巾に使うのは勿体ないやないですか。

豆絞りの手拭いの方が上等なのになあ。

「そんなこと思うのは、
国会議員がよっぽど特殊や、
思うとるからです」

カモカのおっちゃんはいう。

「あんなん、誰がなってもエエねん。
きよっさんはあたまの回転も目玉同様、早そうやし、
漫才的発想入って、国会も風通しようなるかもしれへん」

「それはまあ」

「しかも、ここが大事やが、
大いに楽しい漫才風演説してくれるというなら、よけいエエ。
日本の議員はみな、演説にユーモアないよって、
国会中継が吉本興業主催みたいになったら、
おもろいでっせ」

そういえば、
吉本興業もきよっさんを応援するというていたが、
あれもおかしかった。

「それに議員やいうて、
別にかしこいこと言わんでもエエねん、
庶民のいいたいことを代弁したらエエのやから、
漫才屋はんがなったってかまへんねん、
『大衆はこない、こない思うてますのや』とか、
『ここが聞きとうおます』というてくれるのやったらエエ、
エエが、まあ、わかりまへんな・・・」

例によっておっちゃんの語尾はうやむや、
モウロウとしてしまう。

「昔はもっと、ハッキリ、キッパリ、してたやないですか」

私がいうと、
おっちゃんは持った盃をばったと落としてびっくりし、

「なんでハッキリせな、いかんのですか」

そういわれると困ってしまう。

「モウロウとしてて、なんであきまへんねん」

いや、ま、それは・・・
それをいわれると、これも困ってしまう。

えらい人は仕事がえらいわりに、
楽しいことは少ない、それを知る年齢になると、
もう、子供なんか育てられない、
とにかく子供は若い親が育てて、
(バカッ、何いうとる)
と頭ごなしに抑えつけたほうがやりやすい。

「そうそう、それは関西の寛刑と同じでしてなあ。
・・・文化がすすむと、だんだん、うやむや、モウロウのうちに、
むにゃむにゃと、まあエエやないか、と、
なんでハッキリせないかんねん、ということになってしまう」

おっちゃんは、焼酎のお湯割りをやりつつ、

「年いくと、みな粒立たぬように見えてくる。
えらい人もアホも同じになって見える。
みな『痴呆家の人々』や、
均(なら)したら一緒や、
この世はみんなでやっさもっさして、
何とか保っていこか、と、要はそれだけ、やないかいな」

お湯みたいな春の雨がしとしと降る晩だ。
おっちゃんの語尾のような雨である。






          

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 35、食文化 | トップ | 37、オトナの桜 »
最新の画像もっと見る

田辺聖子・エッセー集」カテゴリの最新記事