・このまえ、大阪高検の検事長が、
「関西の裁判所で刑事裁判の寛刑が目立つのは見過ごせない」
と発言していた。
つまり、刑が、関西では手ぬるすぎるということであろう。
きびしけりゃいい、というものでもないと、
私は思っているのだが。
アメリカで人種差別的な罪名で裁判にかけられた若者に、
裁判長の判決は、
人種差別の歴史を勉強して論文を書くこと、
だったという。
そのぐらい弾力のある裁判というのは、
とても日本ではむつかしいから、
それよりは寛刑のほうがいいと思うが、
どうなんだろう。
こんど大阪弁護士会の会長になられた鎌倉利行氏は、
上の検事長の発言につき、それはつまり、
「関西では裁判官と弁護士がしっかりしているということで、
とくに無実判決の多さは『疑わしきは罰せず』
の鉄則を大事にしている証拠で、大いに結構」
といっていられるのは(朝日新聞、1986・4・3)
納得!という感じで賛成である。
いやしかし、大阪というのは、
まあ、そら、お上をアホにしよるからねえ。
検事長が憤激するのも無理ないところがあるのだ。
大阪府警が摘発した愛人バンクの勧誘パンフに、
「ほんとうに素人娘ばっかり!
看護婦、OL、女子大生・・・
いないのは大阪府警の婦人警官だけです」
と書いてあったと巷間の噂、
そのパンフが大阪地検の検事正の家まで送られてきたというから、
もう無茶苦茶で不埒千万である。
けしからん町であるのです。
しかし、かと思うと、ヘンにマジになったりして、
漫才師がすぐ、議員になりたがる。
医者になるとか、いうのはよい、
しかし国会議員は、あれはなぜかふしぎな所があるもので、
今まで何の気もなしに、ヤス・キヨを笑っていたが、
急に、
(そうか、あれはみな、国会議員になるためやったのか)
と思うと、笑わされていたこともだまくらかされたような気がして、
我々ファンとしては釈然としない。
医者やマスコミ関係、教師、主婦、
などという人が国会議員になるのは結構なのであるが、
漫才師が国会議員になるというのは勿体ない。
いや、これは国会議員に対して差別発言になるか。
漫才師は漫才やっとったらええ、
いや、こういうと、漫才に対して差別になりますねえ、
ややこしい。
漫才が国会議員になるのは、
豆絞りの手拭いを雑巾にするようなもので、
豆絞りの手拭いだったら、
捻って頭に巻いたら阿波踊りが踊れるし、
お祭りのお神輿も担げるし、
それを雑巾に使うのは勿体ないやないですか。
豆絞りの手拭いの方が上等なのになあ。
「そんなこと思うのは、
国会議員がよっぽど特殊や、
思うとるからです」
カモカのおっちゃんはいう。
「あんなん、誰がなってもエエねん。
きよっさんはあたまの回転も目玉同様、早そうやし、
漫才的発想入って、国会も風通しようなるかもしれへん」
「それはまあ」
「しかも、ここが大事やが、
大いに楽しい漫才風演説してくれるというなら、よけいエエ。
日本の議員はみな、演説にユーモアないよって、
国会中継が吉本興業主催みたいになったら、
おもろいでっせ」
そういえば、
吉本興業もきよっさんを応援するというていたが、
あれもおかしかった。
「それに議員やいうて、
別にかしこいこと言わんでもエエねん、
庶民のいいたいことを代弁したらエエのやから、
漫才屋はんがなったってかまへんねん、
『大衆はこない、こない思うてますのや』とか、
『ここが聞きとうおます』というてくれるのやったらエエ、
エエが、まあ、わかりまへんな・・・」
例によっておっちゃんの語尾はうやむや、
モウロウとしてしまう。
「昔はもっと、ハッキリ、キッパリ、してたやないですか」
私がいうと、
おっちゃんは持った盃をばったと落としてびっくりし、
「なんでハッキリせな、いかんのですか」
そういわれると困ってしまう。
「モウロウとしてて、なんであきまへんねん」
いや、ま、それは・・・
それをいわれると、これも困ってしまう。
えらい人は仕事がえらいわりに、
楽しいことは少ない、それを知る年齢になると、
もう、子供なんか育てられない、
とにかく子供は若い親が育てて、
(バカッ、何いうとる)
と頭ごなしに抑えつけたほうがやりやすい。
「そうそう、それは関西の寛刑と同じでしてなあ。
・・・文化がすすむと、だんだん、うやむや、モウロウのうちに、
むにゃむにゃと、まあエエやないか、と、
なんでハッキリせないかんねん、ということになってしまう」
おっちゃんは、焼酎のお湯割りをやりつつ、
「年いくと、みな粒立たぬように見えてくる。
えらい人もアホも同じになって見える。
みな『痴呆家の人々』や、
均(なら)したら一緒や、
この世はみんなでやっさもっさして、
何とか保っていこか、と、要はそれだけ、やないかいな」
お湯みたいな春の雨がしとしと降る晩だ。
おっちゃんの語尾のような雨である。