<人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は>
(あじきないこの世だ
物思いにふけるわが身に
人はあるときはいとしく
また あるときは憎らしく
思われる
おお
うつうつと楽しまぬ人生に
愛憎こもごも
身のまわりに点滅する人たち)
・この「人もをし」は「愛(を)し」である。
憂うつな口ぶりの歌であるから、
鎌倉幕府との抗争に、
敗れたあとの感懐のようであるが、
これはそれよりずっと前のお作。
後鳥羽院三十代の「述懐」で、
承久の乱はこれより九年後である。
後鳥羽院は治承四年(1180)のお生まれ、
高倉天皇の第四皇子、
かの安徳天皇の異母弟に当られる。
寿永二年(1183)、
平家が木曽義仲軍に追われて、
六歳の安徳天皇を奉じ、
西海へ逃げたあと、
祖父の後白河法皇は、
四歳の第四皇子を帝位に即けられた。
それが後鳥羽天皇である。
しかし、帝位にあったのは十九歳までで、
幼い皇子に譲位して土御門天皇とされ、
ご自分は院政を執られる。
鎌倉幕府に掣肘せられるとはいえ、
堰を切ったように豪勇生活がはじまる。
型破りにエネルギュッシュで、
多芸多才の芸術家で、
豪宕な好事家はいられなかった。
歌や蹴鞠、囲碁、双六などというのは、
古来から王侯貴顕の教養であるから、
代々の帝もたしなまれるが、
後鳥羽院はその上にスポーツも万能で、
力持ちで武辺好みの帝王で、
ギャンブル好き、
色ごとにかけてもひけは取らぬ粋人。
それも身分低い遊女もはばからず召されて、
白拍子亀菊をご寵愛になったのは有名な話である。
剣にも凝られ、
コレクションなさるだけではなく、
みずから刀を鍛えられて、
今に「菊一文字」というお作が伝えられている。
旅行好きという点でもめざましく、
熊野御幸は三十回に及ぶ。
おびただしい人々を連れ、
泊り泊りで酒宴を重ねつつの歓楽行であるから、
豪奢をきわめた。
その上、善美を尽くした、
水無瀬離宮を造営されたりする。
二十歳前後から、
院の情熱は突如和歌に噴出する。
定家と後鳥羽院はこのとき蜜月状態であった。
後鳥羽院を中心に、
歌のルネサンス時代が出現した。
院の仰せで撰進された『新古今集』は、
その結実である。
やがて院の情熱は、
歌から政治へと向かう。
天皇親政を夢みて後鳥羽院は、
討幕の志を抱かれるようになる。
承久の乱のとき、
院は四十二歳であった。
あえなく敗退して、
隠岐に流される。
院はこの辺陬の小島に十八年、
この地で崩じられた。
延応元年(1239)おん年六十歳。
その間、
『新古今集』の手入れやら、
都からの交信にこたえて、
はるばる手紙により歌合わせをしたり、
歌の評論をものされたりした。
<われこそは 新島守よ おきの海の
荒き波風 心して吹け>
定家は後堀河天皇の貞栄元年(1232)
勅命を受けて『新勅撰和歌集』を撰進することになる。
これは彼一人が撰者となるもので、
歌人としては大きい名誉である。
定家はそこへ、
すぐれた歌よみのとして、
後鳥羽院のお作をぜひ入れたい、
と思った。
しかし、院は隠岐にあり、
幕府は院のご帰京を許さぬ厳しい態度。
政治的思惑がからんで、
定家は院やその関係者の作を、
勅撰集に入れることが出来なかった。
そのかわりに、
彼は百人一首に、
後鳥羽院と順徳院のお作を入れた。
この歌を作られたのは、
院が三十三歳のとき、
若き日の歌への熱中もさめ、
人生を内省していられる。
この歌の物憂い暗さ、
それでいてちょっとしゃれた味のただよう気分、
何だか陰気なシャンソンを聞くようである。
(次回へ)