むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

35、食文化

2022年04月08日 08時54分54秒 | 田辺聖子・エッセー集










・今日びぐらい、
食べ物について人が論評し、
それをまた皆が喜んで聞き、
あちこちと味覚を開拓し、というように、
食文化さかんなる時代はないと思うのに、
そのわりにお粗末な店もまた、どんどん増えてる。

食文化なんて、
ほんとにいまの日本にあるのか。

ことに、たべもののチェーン店、というのが、
私にはかなわない。

いや、フライドチキンやハンバーガーは、
私にとっては関係ないので、
そういうのはかめへんのです。
いくら増えても。

しかし食事をゆっくりとりたいとか、
ついでにお銚子もらってお酒も楽しみ・・・
という店が、この食文化全盛の現代、
もっと増えてもいいはずなのに、
減っていくばかりである。

小資本は減り、
大資本のチェーン店ばかり増えていく。

私は、小さい店の、
おいしいものを提供するところがもっと増えなければ、
ほんとの大人の食文化といえないと思う。

それが屋台に毛の生えたような店にしろ、
そこの親爺さんと店の雰囲気が好きで、
そこへいくのを人生の楽しみの一つにしている、
そんな店がうんと増えてほしいが、
増える所か、だんだん少なくなるようである。

こういう店は、客により反応が違うから一人にはよくても、
別の人には適わないということもあろうが、
もし適ったとなると、まことに嬉しい。

たまに店が休みだったりすると、
次の日は、常連客に、親爺はぼろくそに叱られている。

「何してんねん、休みなや。
がっかりさせてくれるなよ」

「すんまへん。身内の不祝儀でちょっと」

「そんなん、どっちゃでもエエ、
おっさん休むのはゆるせん、ちゅうねん」

「へへへ・・・」

なんてことになるが、これは要するに、
我々は親爺っさんの料理を食べに行きたいのであって、
親爺っさんと料理は、切っても切れないというところ。

何も余計なことはしゃべらず、
殊更親しいのではないが、
その存在があるから安心して食べられるというもの。

従業員がたくさんいても、
ともかく親爺っさん、大将というのがいれば、
店中にピッと神経が張りめぐらされるであろう。

ところがチェーン店というのは、
とにかく「大将」がいないので困ってしまう。

たいてい、店長というのがいるが、
これが実に若い。

広い店内を飛鳥のように飛び回り、
「いらっしゃいませ」
「何人さまですか」
なんてやったり、
調理場との取り次ぎをしたりする。

眼鏡なんかかけて私大出身風。

カウンターの向こうには、
職人風の板場さんがずらりと並び、、
これが実に人数が多くて、
また別の支店と入れ替るのか、
それとも休日振替なのか、
多彩な顔ぶれ、
いつ行っても違う顔ぶれである。

チーフとか主任とか係長とか、
互いに呼び合い、呼び名も多彩である。

中へ入れば階級もあるんだろうけど、
どれが責任者ということなく、
無個性に並んでいる。

「ここでご自慢の料理は何かね」

なんていう客があると、
熱のない口ぶりで、
「みなよろしです」なんていう。

店の奥の方は、
一階、二階とも畳敷きになっていて、
ワイワイというさわぎ、
これは表に札のかかっている団体客である。

こけつまろびつ、
女の人が団体客の料理を運んでいる。

「茶碗蒸し十三人前」

「盛り合わせにぎりを五ついうたのに、
三つしか来えへん、いうてはるけど」

火事場のさわぎ。

しかもこの喧騒のうちに、
見習いさんというような少年が、
電話で受けた注文を配達に行く。

手拭きのおしぼりがほしいと思っても、
誰にいっていいのか分からない、
お銚子もう一本と思って、
通りすがりの店の人にいっても、
「すみません、あっちへいうて下さい」

責任者という人の見当たらない店内は、
中心がなく、
どことなくとらまえどころがなく、
やたら忙しいばかり、
そのうち、お銚子を別々の人が持って来て、
重複して通ってたり、
こっちの注文が別の人のところにいってたり。

さて、帰ることになる。

帰るときに板前さんは、
「ありがとうございました」といってくれるが、
お金を扱わないから、どこか上の空である。

レジはまた別の人で、
これは料理を扱わないから、
「ありがとうございます」も、
やはり上の空である。

これが親爺っさんのいる店であると、
自分の料理を食べた客がどんな反応を示して、
どうやって金を払うかをちゃんと、
見届けられる。

だから「ありがとうございました」も、
心から出るというもの。

やっぱり大将の居らぬ店、
というのは困るのですよね。

チェーン店の大将というのは何してはるのか、
帳簿と銀行だけを相手にしてるのであろうか。

店を出るが早いか、
何を食べたか思い出せないという、
砂を噛むようなあじけなさ。

「なあに、近ごろの若いもんは、
そんな風にドライな店のほうがよろしねん。
なまじ店の人とモノいうたり、
近間で食わんならんというと、
困ってしまう人が多い」

カモカのおっちゃんはいう。

「なるべくモノいわんですむ店のほうが、
若い人にははやると思いますな、
無個性な店員のほうが受ける」

しかし私の見たところ、
チェーン店に入ってる中年者もかなり多い。

中年者も「大将」のいる店なんか要らん、
責任者も中心も要らん、
何となくそれらしく食べ物飲み物が出りゃいい、
と思っているのであろうか、
いまの日本の食文化の程度は、
あまり高くないというゆえんである。






          

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