<難波江の 芦のかりねの ひとよゆえ
みをつくしてや 恋ひわたるべき>
(難波の海辺のあの仮寝
波はひたひた
芦はさやさや・・・
あなたと過ごしたあのひと夜
芦の一節(ひとよ)ほどの
みじかくもはかない契り
あのかりそめの恋ゆえに
あたしは 身を尽くして
あなたをあれからずうっと
恋しつづけなければ
いけないのかしら)
・艶麗な歌であるが、
かなり手だれの技巧を駆使している。
これは19番の伊勢の歌、
<難波潟 みじかき芦の ふしの間も
逢はでこの世を すぐしてよとや>
と技巧的には似通っている。
ただし、
歌の迫力からいうと伊勢のほうが強い。
ずうっと真実味があって人の心を打つ。
この88番の歌は、やや技巧が目立ち、
真情よりもしらべの美しさに重点がおかれている。
しかし、定家はそこを買ったのかもしれない。
「難波江の芦」までが序詞である。
芦の仮根に仮寝をかけ、
ひと夜に一節をかけている。
この歌の作者は女性である。
『千載集』巻十三の恋に、
「摂政、右大臣の時の家の歌合わせに、
旅宿に逢ふ恋といへる心をよめる」
として出ている。
摂政とは藤原兼実(かねざね)である。
この作者は、
皇嘉門院に仕える別当(女官長)であった。
皇嘉門院とは、
摂政、兼実の父、忠通(ただみち)の娘で、
崇徳天皇の皇后・聖子のこと。
聖子皇后は兼実の異母姉である。
それで、兼実邸で歌合わせがあるときは、
門院に仕える女房達がたくさん加わるのであった。
この女別当も、
歌よみとして名高かったから、
常連であった。
彼女の名も生没年も不詳であるが、
十二世紀終わりごろの人。
才気ある女の歌よみが、
伊勢の歌あたりを思い浮かべて、
題詠に応じたというところではないだろうか。
旅宿といえば、
長谷の観音でも石山寺でも、
女性の旅にはふさわしいように思われるが、
恋というからには、
やはり「みをつくし」の縁語で、
難波がまず連想されたに違いない。
当時の女性の旅は、
家族の赴任に従うのでなければ、
まず物詣でである。
難波江に宿るのは、
住吉詣でが多かったであろう。
この女別当の脳裡には、
かつての海辺の宿りが思い浮かび、
それにつれて、
どこかでの一夜が連想されたかもしれない。
なかなか、
口にのぼせやすく、
おぼえやすい歌になっている。
かなり推敲したであろうが、
苦渋のあとはとどめず、
といって、うわすべりでもなく、
ちょっとした思い出の投影もありそうである。
彼女が仕えた皇嘉門院の聖子は、
私と同じ名前なのでおぼえている。
どんなつもりでつけたか、
私の名前をつけた父は、
もう疾うに死んでいるので分からない。
松田聖子さんは芸名だが、
私は本名である。
(次回へ)