「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ⑮

2023年01月26日 09時43分10秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・安水稔和さんはいわれている。

「一月十八日の夕方に、
わが家の壊れた郵便受けに入っていた、
神戸新聞八頁の朝刊を手にしたとき、
どんなにはげまされたことか。

十八日の八頁は、十九日には十二頁、
二十六日には十四頁、二月二日には二十二頁になった」

(「現代詩手帖」 1995年3月)

一月二十日の神戸新聞、
三木康弘論説委員長の異例の社説、
「被災者になって分かったこと」、
これは三木氏が地震で東灘区の自宅が倒壊し、
父上を亡くされたが、
埋まったままでなすすべがなかった二日間の体験を、
社説に載せられたものである。

実をいうと私は三木さんとは旧知の間柄であるが、
災害のくわしい事実は知らなかった。

未明の地震で三木さんの寝ていた二階が一階を圧し潰した。
階下には父上が就寝されていた。

三木さんは恐ろしさによろめきながら呼ぶが返答はない。
家の裏へまわってすき間から呼ぶ。

強いガス臭。
依然、返答がない。

周囲の家は軒並み傾ぎ、潰れている。
三木さんは自失する。

何をどうしたらいいのか、
誰に救いを求めたらいいのか。

電話もない。
何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ走る。

彼の家もぺしゃんこだが、
のこぎりとバールを持って来て掘ってくれる。

しかし、人力では限りがある。
上からいつ崩れてくるかわからない。
大工さんでは限界だった。

地区の消防団が十名ばかりで、
救出活動をはじめていた。

瓦礫の下から返答のある人々を次々救出してゆく。
時間と労力の要る仕事だ。

三木さんは父上のことを頼む。
だが、反応のある人が優先といわれる。

無理はないのだが、十七日の日も暮れ、寒い。
食べものも水もない。

この時点ではどこからも救援物資は来ない。
情報もない。

そのころ市役所も県庁も県警、消防署も、
あげてパニック状態だった。
未曽有の大災害に、マニュアルは通用しなかった。

十八日の夜があけた。

近所の一家五人の遺体が、
消防団の人たちによって搬出された。

幼い三児に両親は覆いかぶさって死んでいた。

三木さんは涙がこみあげてくる。

再び、分団の人たちに父のことを頼むが、
検討してくれたけれども、

<とても私たちの手に負えない>といわれた。

<市の消防局か自衛隊に頼んでほしい>

三木さんは東灘消防署にある救助本部へゆく。
ここでも生きてる可能性の高い人からやっていく、
お宅はいつになるか分からない、
分かってほしいといわれ、
理解はできるが三木さんはやりきれない思いだった。

結局、三日目に自衛隊が遺体を掘りだしてくれた。

だめだという予感はあったが、
一縷ののぞみをかけている家族に、
何とむごい話だろう。

しかしこのとき、
あっちでもこっちでも生き埋めの悲劇は起っていた。

助けて、助けて、と瓦礫の中から声がするが、
人力ではどうしようもない。

市消防局では、一一九番が鳴り響く。

子供が埋もれた、
火が近づいている、
と泣き叫ぶ人ばかり。

すったもんだの末、
四時間もたってやっと出動してきた自衛隊は、
途中の大渋滞に阻まれて神戸まで着けない。

阪神高速道路が崩壊したのは、
地震直後なのだ。

自衛隊にはチェーンソーや削岩機が積まれていたから、
早くに現場に到着したなら、
もっと助かる人があった。

道路がネックとなった。
高速があれば有事のときでも交通規制しやすいと、
想定していた警察の心づもりはふっとんでしまった。

思えば今回の地震は想定外のことが次々起った。

災害警察本部は、
ポートアイランドに設置されるはずだったのが、
指揮中枢となるポートアイランド県警港島庁舎は、
神戸大橋が破壊されたので、
役に立たなくなった。

人工島はすべて橋に被害を受けている。
橋が渡れなければ孤島になってしまう。

災害警察本部はいそいで生田署に移される。
これも想定を外れた。

その間も各警察署には、
救助を求める人々が殺到していた。






          


(次回へ)

写真は、今冬最強寒波到来で、
滅多に積雪のない温暖な瀬戸内沿いの当地も、
数十センチの積雪です。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「わたしの震災記」 ⑭ | トップ | 「わたしの震災記」 ⑯ »
最新の画像もっと見る

「ナンギやけれど」   田辺聖子作」カテゴリの最新記事