2002年(平成14年)
・1月20日(月)
藤本さんが直木賞を受賞されたとき、
神戸から西宮へ車を飛ばしてお祝いにかけつけたが、
そのときのおっちゃんの言。
「どんな気分ですねん。
長年の便秘が解消したよな感じやろな」と、
「豪快に笑い、コップ酒を飲み干されたものです」
藤本さんの弔辞に、今まで水を打ったように森厳な葬儀場が、
(二百~二百五十人の方が参列して下さった)
この辺りからクスクス笑いがもれそうな暖かな空気になり、
和やかに明るくなってきた。
あるとき、東京の会場で会ったら、
おっちゃんはもう車イスだったが、
たまたま聖子夫人が側にいなかった。
「あなたは急に私の腕を引き、
『物書いて生きていく、ちゅうのは、ま、辛いことでっしゃろ?
違いますか』という言葉を口にされました」
藤本さんはどう答えていいかわからず、迷っていられると、
「な、そうでっしゃろ、見ててもわかるわ」
とおっちゃんは言ったという。そこで藤本さんは、
「ま、そら、いろいろとナンギなことはありますが、
誰も助けてくれるわけでもない仕事やし」
おっちゃんは、「そうやと思う」
そこへ私が帰ってきたので、「おい、帰るか、もう!」
と大声で叫んだと。
彼が私の仕事のことを、
そんな風にみていたなんて思いもしなかった。
私もまた、自分が好きでやってる苦労、と思うから、
愚痴や弱音は一切吐かず、彼にも見せてないつもりだったけど。
「巨体に照れを満載したダンプカーのカモカのおっちゃん、
誰もが思い出を抱いて見送るのが今日なのです。
平成十四年 一月十六日 藤本義一」
それで、喪主挨拶で、私はまず、藤本さんにお礼を言った。
「祭壇の彼も大笑いしているので、
こんな席ですが、おかしければお笑い下さい」
とあらかじめ言っておいた。
新聞記事には、カモカのおっちゃん死去、と出たので、
まず、カモカの説明。
挿絵画家の高橋孟さんが、モデルがないと描きにくい、
とのことで、手近にいた飲み友達のおっちゃんを拉っして描かれ、
それで私の『週刊文春』の連載エッセー「カモカのおっちゃん」が、
即、そのまま川野純夫がモデルと思われてしまったいきさつ。
彼のおおどかな明るい性格は奄美生まれのせいかも、という話。
彼の先妻で作家の川野彰子さんとの短いつきあい、などを話した。
私が昭和三年生まれ、彼は大正十三年、
同時代の嵐をかいくぐって来た戦友なので、
話題は尽きなかった。
「いっそ、結婚しよう、その方がおしゃべりしやすい、
という話になりました。しかし彼は四人の子持ち男、
私は小説書き、家事と小説、どっちも中途半端になってしまうわ」
と言いましたら、川野いわく、
「中途半端と中途半端が二つ寄ったら、満タンになるやないか」
嵐の日々だったけれど、時がたてば子供は独立して家を出ていく。
家事は少し楽になったが、私の仕事はいよいよ忙しくなり、
食事を作ることも出来なくなった。
「パパ、ごめんなさい。
駅前のお寿司屋さんで食べてきて」というような次第。
川野はそんなとき、怒る男ではないので、素直に出ていく。
機嫌よく帰ってきて、あそこのトロは旨いなあ、なんていいながら、
寝室へ入ってぐっすり寝てしまう。(笑)
せっせと書いている私に、
せめて巻寿司の一本でも持って帰ってくれるのか、
と思いましたが、全く気がつかない。(笑)
また子供たちがそれぞれ市民生活を営み、子供を育て、
今、こうして喪の席に並んで坐ってくれたことも、
川野には嬉しいことだろうと思います。
本当にみな様、川野純夫にお寄せ頂きました、
暖かい熱いお志、友情、ありがとうございました。
私はこれを何も見ないでしゃべったのだった。
喪主挨拶はそういうものだろうと思って。
ところが、一般の焼香が始まったとき、
さっきの喪主挨拶を『文芸春秋』本誌に掲載させてほしい、
とヒワちゃんが言った。
「えっ!メモなしにしゃべったのに・・・」
ミド嬢が、藤本さんの弔辞をテープに入れたあと、
ついでに私のも録っていたことがわかり、
テープ起こしをして送る約束に。
お棺の中は花でいっぱい。
私は眠っているような彼に、心で言う。
「いや~、人間、葬式でも楽しめるもんやねえ、
と笑ってもらったでしょうが」
私があとへ残ってやることが出来てよかった。
もし、彼が残ったら、台車に乗せられてきれいな私の白骨が出てくるのに、
堪えられなかったんじゃないかな。
係りのおじさんは、骨つぼへ入れる順番を指図してくれる。
外は氷雨で寒いが、お骨はなお、ほの暖かい。
とてもきれいに大切なお骨がそろったね、
おじさんはほめてくれる。
再び会館へ戻り、身内だけでお経をあげてもらう。
還骨経、というそうだ。
(次回へ)