「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

34、鈴虫 ②

2024年03月19日 08時31分46秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳





(今朝の桜の様子)







・鈴虫の音を聞きながら、
源氏は宮に低くささやく。

「こんなお姿のあなたを、
見ようとは・・・
悔やんでも悔やみきれない」

宮は困惑して、
面をそむけていらっしゃる。

お側の尼たちは、
遠慮して退がっている。

降るような鈴虫の音だけが、
周囲を埋め尽くす。

「あなたをこんなお姿にして、
どんなに私は、
あなたを愛していたかが、
わかりました。
おろかなことです。
取り返しのつかぬことを、
してしまった・・・」

宮は、
お返事もおできになれない。

源氏はあのころ、
人前でこそつくろっていたが、
内々では宮を厭わしく、
憎く思っていたことは、
誰よりも宮が一番、
ご存じでいらっしゃる。

生まれた薫にも冷淡だった。

宮はもう二度と、
源氏には会えない、
というお気持ちになられ、
出家を決心なさったのである。

源氏とはもう、
縁が切れた、
これで心も安らかに、
日々を送れようと、
思っていらしたのに、
またこんなことを言われるのは、
宮には辛く、
苦しく思われる。

月は明るく照り、
源氏が弾きはじめた琴の音に、
宮は耳を澄まされる。

源氏が人生でかかわりを持ち、
恋い焦がれ苦しめられた女人は、
すでにもう何人か、
こういう風に尼になって、
世を捨てた。

女三の宮、
尚侍の君、
朝顔の斎院、

はかなく消えた昔の恋。

十五夜なので、
月見の宴があるだろうかと、
兵部卿の宮が夕霧たちと、
共に来られた。

「お琴の音を、
たずねて参りました」

源氏は喜んで席を設ける。

いつか、
殿上人も次々やってきて、
虫の音の品定めや、
琴の合奏に宴が高まった。

「今宵は鈴虫の宴、
ということにして、
飲み明かそう」

酒がめぐったころに、
冷泉院(源氏と継母、藤壺の宮の御子)
からお便りが届いた。

「名月を一緒に見ませんか」

畏れ多いお召しである。

急いで一同は車を連ね、
冷泉院へ参上した。

月は高く、
夜更けの空の風情は面白い。

前駆もひかえさせて、
しのびの参上。

冷泉院も御位をお降りになって、
今は閑静にすごしていられる。

源氏の参上をたいそう喜ばれた。

源氏は夕霧や明石の女御に増して、
冷泉院のことを深く、
思っている。

しのびやかな鈴虫の宴が、
思いがけず、
にぎやかな月見の宴となった。

源氏はそのあと、
中宮(六條御息所の姫君、冷泉院中宮)
の方へ参上した。

中宮には、
強い希望がおありになる。

それは出家のお望みである。

御母御息所が怨霊となって、
いまも人々の噂にのぼることを、
悲しく辛くお思いになり、
今はご自分が尼となって、
母君の罪障の業火をを、
しずめてさし上げたい、
と思し召すらしかった。

源氏はひたかくしにしていたが、
いつか世にひろまり、
中宮のお耳にも入ったらしかった。

源氏はさもあろうと、
いとおしかったが、

「罪障はどの人も、
免れぬところなのです」

とお慰めする。

「いますぐ御位をお捨てになっても、
あとへ悔いのみ残り、
母君をお救いできるとは、
限りません。
お苦しみがせめて少しは、
晴れますように、
ご供養をひたすらなさいましたら、
いかがでございますか。
そう申す私も、
いつかは心静かな勤行生活をして、
後世を願うとともに、
母君のご供養もしたいと思いつつ、
なかなか浮世のほだしに、
しばられて思うに任せませぬ」

中宮といい源氏といい、
まだこの世を捨てられる身では、
なさそうであった。

源氏は明石の女御も夕霧も、
わが子として可愛く、
深く満足しているが、
この冷泉院に寄せる心は、
それらを上回って深かった。

冷泉院も、
久しぶりに源氏に会われて、
しみじみとあわれ深い思いで、
いられた。






          


(了)

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