・三条の自邸へ帰って私は、
四、五日、呆然と過ごした
中宮からの忍びのお便りも、
ここしばらく途絶えている
式部のおもとからの、
連絡もない
世間から見放されたようで、
私は不安だった
こんな時は、
「春はあけぼの草子」を、
書く気にもならなかった
不安感の底には、
則光の得体の知れぬ悪意があった
結局、あの夜、
彼は何かむしゃくしゃすることが、
あったのだろうと、
思わないではいられなかった
そうして、
ああいう男の機嫌を取って、
暮らさねばならない妻の位置に、
私がいないのを幸福に思った
いや、思おうとした
それでいて、
(もし則光がほんとうに、
もう来ないのだとしたら?)
と思うと、
へんに重い空虚感がひろがってゆく
あんな男、
愛してなんかいないのに
でも、何となく、
正直な心の奥底では、
(しまった!)
という気がするからふしぎだった
(則光を怒らせてしまった・・・)
という自分の落ち度といった気分に、
滅入りこんでしまう点で、
私は私自身に腹を立てていた
そういう日、
顔見知りの長女(おさめ)が、
手紙を持ってきた
中宮からのお使いは、
宰相の君が使う女童が、
持ってくるのであるが、
この長女は中宮職の、
下級の女役人であるから、
もしや、
(ご直筆ではないかしら?)
と思うと胸がとどろいた
果たして、
「少納言の君さま、
宮さまお直々のお文でございます」
と長女は、
私の邸だというのに、
声をひそめる
私は胸とどろかせて、
開けてみた
白い紙には、
何も書かれていない
中に包みがあり、
開くと時期はずれの、
返り咲きの山吹の花びら一つ、
鮮やかな黄色が
その包み紙に、
高雅なご筆跡の走り書き、
墨のかすれも美しく、
まさしくこれは中宮のおん手で、
「いはで思ふぞ」
とただひとことある
あ、これは古歌の、
<言はで思ふぞ言ふにまされる>
(口に出さず恋しく思っている
その方が口に出して言うより、
ずっと思いは深いのよ)
そういう意味の歌を、
暗に引いていらっしゃる
中宮の久しぶりの、
お声を聞く心地がして、
嬉しい上に、
また、このお歌の適切な引喩、
山吹の花びらの洗練された使い方、
すべて私の趣味嗜好にぴったり、
勿体ないことだけれど、
(おやりになるわ、
さすが!)
と共感した思いでいっぱいだった
私は久しぶりに、
心がみずみずしくあふれてきた
これこそ私と中宮の、
共有する喜びの世界
嬉しさに私は、
目が熱くなり涙っぽく、
赤らんでくるのを、
長女に対して恥ずかしく思う
長女はそんな私を見て、
「中宮さまは、
ことごとにつけて、
あなたさまのことを、
お思い出しになられるようで、
ございますよ
早くご出仕なさいませ
皆さまも淋しがっておいでです」
といってくれた
「私はもう一軒、
用足しにまいります
そのひまに、
お返事をお書き下さいませ」
長女が出ていったあと、
私は机に向かったが、
この歌の上の句を度忘れしていた
この古歌は、
私もよく知ってる歌で、
絶えず引用しているのに、
こんなことってある?
のどまで出ているのに、
上の句が出ない
すると、
そばにいる小雪が、
「下行く水の・・・
『心には下行く水のわきかへり』
というのでしょう?」
と不思議そうに教える
私は笑い出してしまった
こんな子供に教えられるなんて
全く則光を笑えない
中宮のお文を頂いて、
私は滅入った気持ちから救われた
それから、三、四日して、
小二条のお邸へ上がった
このお邸はおどろくほど、
小ぢんまりしていて、
その上、
中宮の母君、貴子の上がご病気のため、
加持の僧が入れかわり立ちかわり、
詰めているから、
ごった返している
しかし、中宮のおましどころは、
まるで内裏を思わせるように、
よくととのえられ、
住みやすげにしつらえてあった
中宮は女房たちと、
話していられるところだった
何十日ぶりであろう、
私は心が臆して、
そっと几帳のかげに、
かしこまっていると、
中宮はお目さとく見つけられて、
「あれは新参の人なの?」
と笑われる
中納言の君をはじめ、
宰相の君たち女房も笑う
私は御前にすすんで、
久方ぶりのお目通りのご挨拶をし、
ご直筆のお手紙のお礼を申し上げる
私は、その上の句が、
どうしても出なくて、
召使いの女の子に、
教えられた話を申し上げると、
中宮はまたお笑いになる
「そういうことはあるものよ
ことに少納言みたいに、
博学で歌の道に通じたと、
自他ともに認めている人が、
女の子に教えられる、
などということが嬉しいわ」
と仰せられるものだから、
一座はまたどっと笑う
「少納言は賢いと思えば、
抜けていたりして、
ほんとに面白いわ
あなたの顔をしばらく、
見ないでいると、
物足りなくて淋しいわ」
と言い放たれる明るさ、
全く昔の通りである
ふり仰ぐと、
中宮は二ヵ月あとの臨月を、
控えられておなかもふっくらと、
高くなっていらっしゃるが、
お顔の色も冴えて、
おすこやかそうだった
お髪は短くなっていない
お召物ばかり鈍色だが、
かの五か月前の悲劇、
手ずからお髪を下ろそう、
とされたのを、
その途中でみんなは、
強いておとどめしたという
(次回へ)