・私が神戸の下町に住みはじめたころは、
まだ神戸ブームは起きていず、
知る人だけが知っているという、
人生の穴場の町だった。
そののちテレビドラマの舞台になったりして、
神戸が観光名所になったので、
<いつか一度行ってみたい>
と、人にいわれるような町になった。
しかしそれ以前は、ひっそりと、
いいものをふところに育てているような町だった。
私は下町の診療所裏の自宅と共に、
古い異人館にも住んでいたので、
古風な人情と、ハイカラな異国趣味を同時に知った。
モダンと古風が微妙に混ざり合って、
濃密な美味をもたらす、ふしぎな町だと思った。
そういう町だからこそ、
被災者同士いたわり合い、たすけ合う、
そしてボランティアもすんなり受容することが、
できたのではないかと思っている。
茶髪の兄ちゃんが、
避難所のトイレ掃除をごく自然にやっている。
若い女性が寒風吹きすさぶところにテントを張って、
<あついおうどんいかがですか>
友人三、四人で、材料かついで大阪から来たという。
避難所ではあったかいものが喜ばれると聞いて。
若い人が自然に、
日常感覚で手を出すようになった。
気がついたらボランティアをしていた。
そんな顔で、続々と神戸へ入ってきた。
そして自衛隊もなかなか、
きめこまかな救援活動をつづけてくれた。
晩夏の神戸を歩いた。
瓦礫の山は片づけられ、
それこそ何もないところに青空が広がっていた。
下山手通りの、美しい赤レンガの栄光教会は跡形もなく、
蒲鉾型の仮設礼拝堂が建っている。
三宮駅のサンプラザビルは解体されていた。
フラワーロードの日生ビルも但馬銀行も。
そごう百貨店は傷んだ外壁がとり払われて、
一部はもう営業をはじめていた。
そういえば宝塚も<花のみち>は崩れたけれど、
大劇場は再開した。
神戸の町には、
<がんばってや KOBE>とともに、
<フェニックス・コーベ>の看板が多くなっていた。
<WE LOVE KOBE>も。
元町商店街はわりあい損壊をまぬかれたほうで、
人通りも多く、店も開いている。
ここの鈴蘭灯、見るのは何年振りみたいな気がする。
センター街も、アーケードは失われたけれど、
店は開いていた。
タウン誌「神戸っ子」は、
神戸のおしゃれをいっぱい盛った月刊だが、
けなげにも二・三月合併号をいち早く出し、
あとはがんばって毎月出しつづけている。
神戸だけではなく、
県外にもファンの多い雑誌だ。
女性編集長の小泉さんは、
<崩れた町を見たとき、
悲しくて涙が止まらなかった。
でもどんなことがあっても神戸は離れません。
みんな、そうやと思うわ>
いまは神戸も、一種の戦国時代。
シャッターをおろしたビルの前で、
衣料品や雑貨を売る人。
プレハブでお好み焼き屋をはじめる人、
そして女たちの働く姿がやけに多い。
<ぼ~~っとしてても、しゃーないやん>
道ばたで果物や野菜を並べはじめたのも女たちだった。
<店建てかえたばっかりやってん。
けど、壊れたもん、しゃーないやん>
復興までは大変だが、
女たちのエネルギーを私は信じる。
<しゃーないやん>といいつつ、
女たちははねおき、立ち上る。
<お調子もん、いうことやろ>といったら、
<そやそや、あはは・・・>
果物屋の五十すぎたおばさんは、
青空商店街の真ん中で笑う。
うしろに焦土がひろがっている。
(了)