むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「わたしの震災記」 ㉔

2023年02月04日 08時58分51秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・私が神戸の下町に住みはじめたころは、
まだ神戸ブームは起きていず、
知る人だけが知っているという、
人生の穴場の町だった。

そののちテレビドラマの舞台になったりして、
神戸が観光名所になったので、
<いつか一度行ってみたい>
と、人にいわれるような町になった。

しかしそれ以前は、ひっそりと、
いいものをふところに育てているような町だった。

私は下町の診療所裏の自宅と共に、
古い異人館にも住んでいたので、
古風な人情と、ハイカラな異国趣味を同時に知った。

モダンと古風が微妙に混ざり合って、
濃密な美味をもたらす、ふしぎな町だと思った。

そういう町だからこそ、
被災者同士いたわり合い、たすけ合う、
そしてボランティアもすんなり受容することが、
できたのではないかと思っている。

茶髪の兄ちゃんが、
避難所のトイレ掃除をごく自然にやっている。

若い女性が寒風吹きすさぶところにテントを張って、

<あついおうどんいかがですか>

友人三、四人で、材料かついで大阪から来たという。
避難所ではあったかいものが喜ばれると聞いて。

若い人が自然に、
日常感覚で手を出すようになった。

気がついたらボランティアをしていた。
そんな顔で、続々と神戸へ入ってきた。

そして自衛隊もなかなか、
きめこまかな救援活動をつづけてくれた。

晩夏の神戸を歩いた。

瓦礫の山は片づけられ、
それこそ何もないところに青空が広がっていた。

下山手通りの、美しい赤レンガの栄光教会は跡形もなく、
蒲鉾型の仮設礼拝堂が建っている。

三宮駅のサンプラザビルは解体されていた。
フラワーロードの日生ビルも但馬銀行も。

そごう百貨店は傷んだ外壁がとり払われて、
一部はもう営業をはじめていた。

そういえば宝塚も<花のみち>は崩れたけれど、
大劇場は再開した。

神戸の町には、
<がんばってや KOBE>とともに、
<フェニックス・コーベ>の看板が多くなっていた。

<WE LOVE KOBE>も。

元町商店街はわりあい損壊をまぬかれたほうで、
人通りも多く、店も開いている。

ここの鈴蘭灯、見るのは何年振りみたいな気がする。
センター街も、アーケードは失われたけれど、
店は開いていた。

タウン誌「神戸っ子」は、
神戸のおしゃれをいっぱい盛った月刊だが、
けなげにも二・三月合併号をいち早く出し、
あとはがんばって毎月出しつづけている。

神戸だけではなく、
県外にもファンの多い雑誌だ。

女性編集長の小泉さんは、

<崩れた町を見たとき、
悲しくて涙が止まらなかった。
でもどんなことがあっても神戸は離れません。
みんな、そうやと思うわ>

いまは神戸も、一種の戦国時代。

シャッターをおろしたビルの前で、
衣料品や雑貨を売る人。

プレハブでお好み焼き屋をはじめる人、
そして女たちの働く姿がやけに多い。

<ぼ~~っとしてても、しゃーないやん>

道ばたで果物や野菜を並べはじめたのも女たちだった。

<店建てかえたばっかりやってん。
けど、壊れたもん、しゃーないやん>

復興までは大変だが、
女たちのエネルギーを私は信じる。

<しゃーないやん>といいつつ、
女たちははねおき、立ち上る。

<お調子もん、いうことやろ>といったら、

<そやそや、あはは・・・>

果物屋の五十すぎたおばさんは、
青空商店街の真ん中で笑う。

うしろに焦土がひろがっている。






          


(了)

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