むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

13、カンボジアに何が ②

2022年08月03日 08時13分06秒 | 田辺聖子・エッセー集










・シアヌーク殿下はクーデターで追われ、
ロン・ノル政権に変り、そのときからカンボジアに、
爆撃の音が響くようになる。

飢えを知らぬ国、といわれた、
この豊かな地上の楽園が飢えはじめた。

人々は放浪し、
農村はうち続く空襲に疲れはじめる。

しかし、まだそれでも、その頃までは、
人間の暮らしは続いていた。

ロン・ノル政権が倒され、
ポル・ポトたちが政権を握ったときから、
この国は否応なく暗黒時代に突入する。

ポル・ポト政権は社会主義の革命軍であった。

カンボジアを解放すると謳ってこの国を支配したのだが、
それがとんでもない解放の仕方だった。

この時点から民衆は大量に虐殺されはじめる。

私が「クメール・ルージュ」による大量虐殺、
というニュースを目にしたのは、
いつごろからであろう。

とにかく、おびただしい民衆が死んだらしい、
カンボジア難民が、国境を越えて、
隣りのタイやベトナムへ逃げ込んでいる、
というニュースがその最初だった。

何万人か、何十万人か、ただ大きい数だ、
というだけで、詳細はわからない。

ポル・ポト政権は極端な鎖国主義だったから、
西側のジャーナリストを一切入れない。

そのニュースは難民の口から洩れ、
世界をかけめぐって人々を震撼させているらしい。

カンボジアを、ただ一度、瞥見しただけの私は、
背後の政治事情をよくのみこめないまま、
あのおとなしげな人々のいる国で、
同胞を大量虐殺するということが、
起こるはずがない、と思ったが、
そういう発想は事情通でも同じらしく、

「デマだろう。
あるとしても何十万なんてありえない。
せいぜい数万じゃないか」

「あの国に限ってそんな」

「革命に多少の犠牲はつきものだ」

という口吻の文章を、その後、見た。

それに、革命や社会主義に、
特殊な希望や信頼や思い入れを抱いている人は、
ことさら、そう思いたかったようだ。

私は大量虐殺など信じたくなかったから、
そっちの楽観論のほうを選びたかった。

といって、社会主義政権に夢を托すという気持ちもなかったが、
ただ新聞や週刊誌の扱いがそんなに大きくないので、
たいしたことはないのだろう、
ぐらいに受け止めていた。

1979年1月7日、
ベトナム軍がポル・ポト政権を倒して、
カンボジアにヘン・サムリン新政権ができた。

ポル・ポト派の恐怖政治はやっと終焉した。
鎖国も解けたので、西側ジャーナリストたちが殺到した。

四年ぶりにカンボジアへ入った、
外国人記者団が見たものは何だったろうか。

破壊された都市と瓦礫の山、
(ポル・ポトらは都市文化を否定したのだった)
白骨の山と処刑場の土饅頭。

拷問センターの血の跡・・・
付近の小鳥の巣は人間の髪の毛でできていたという。

カンボジア全土に、人間は極端に少なくなり、
何万人もいたある地方都市など、
地平線まで人影はなかったという。

あの地上の楽園が、
鬼気せまる地獄に変じていた。

難民の訴えは真実だったのだ。

カンボジアの新政府は、
ポル・ポト時代の犠牲者を、
二百万人どまり、と類推する。

人口七百万人のこの国で、内輪に見積もっても、
四分の一ぐらいの人が死んでしまった。

全国的規模で、
これらの虐殺は行われたのだ。

こんなことが信じられるだろうか。
アウシュビッツより酸鼻な話ではないか。

軍隊が殺し合うのはわかる。

しかし一般の農民、市民、女こどもまで、
抹殺してしまうという、その思想は、
どこから来ているのだろう。

どんな思想にせよ、
何百万の人間をたった四年で抹殺してしまって、
その上に成り立つ楽土などあるはずもないではないか。

私はまだ半信半疑だった。






          


(次回へ)

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