・シアヌーク殿下はクーデターで追われ、
ロン・ノル政権に変り、そのときからカンボジアに、
爆撃の音が響くようになる。
飢えを知らぬ国、といわれた、
この豊かな地上の楽園が飢えはじめた。
人々は放浪し、
農村はうち続く空襲に疲れはじめる。
しかし、まだそれでも、その頃までは、
人間の暮らしは続いていた。
ロン・ノル政権が倒され、
ポル・ポトたちが政権を握ったときから、
この国は否応なく暗黒時代に突入する。
ポル・ポト政権は社会主義の革命軍であった。
カンボジアを解放すると謳ってこの国を支配したのだが、
それがとんでもない解放の仕方だった。
この時点から民衆は大量に虐殺されはじめる。
私が「クメール・ルージュ」による大量虐殺、
というニュースを目にしたのは、
いつごろからであろう。
とにかく、おびただしい民衆が死んだらしい、
カンボジア難民が、国境を越えて、
隣りのタイやベトナムへ逃げ込んでいる、
というニュースがその最初だった。
何万人か、何十万人か、ただ大きい数だ、
というだけで、詳細はわからない。
ポル・ポト政権は極端な鎖国主義だったから、
西側のジャーナリストを一切入れない。
そのニュースは難民の口から洩れ、
世界をかけめぐって人々を震撼させているらしい。
カンボジアを、ただ一度、瞥見しただけの私は、
背後の政治事情をよくのみこめないまま、
あのおとなしげな人々のいる国で、
同胞を大量虐殺するということが、
起こるはずがない、と思ったが、
そういう発想は事情通でも同じらしく、
「デマだろう。
あるとしても何十万なんてありえない。
せいぜい数万じゃないか」
「あの国に限ってそんな」
「革命に多少の犠牲はつきものだ」
という口吻の文章を、その後、見た。
それに、革命や社会主義に、
特殊な希望や信頼や思い入れを抱いている人は、
ことさら、そう思いたかったようだ。
私は大量虐殺など信じたくなかったから、
そっちの楽観論のほうを選びたかった。
といって、社会主義政権に夢を托すという気持ちもなかったが、
ただ新聞や週刊誌の扱いがそんなに大きくないので、
たいしたことはないのだろう、
ぐらいに受け止めていた。
1979年1月7日、
ベトナム軍がポル・ポト政権を倒して、
カンボジアにヘン・サムリン新政権ができた。
ポル・ポト派の恐怖政治はやっと終焉した。
鎖国も解けたので、西側ジャーナリストたちが殺到した。
四年ぶりにカンボジアへ入った、
外国人記者団が見たものは何だったろうか。
破壊された都市と瓦礫の山、
(ポル・ポトらは都市文化を否定したのだった)
白骨の山と処刑場の土饅頭。
拷問センターの血の跡・・・
付近の小鳥の巣は人間の髪の毛でできていたという。
カンボジア全土に、人間は極端に少なくなり、
何万人もいたある地方都市など、
地平線まで人影はなかったという。
あの地上の楽園が、
鬼気せまる地獄に変じていた。
難民の訴えは真実だったのだ。
カンボジアの新政府は、
ポル・ポト時代の犠牲者を、
二百万人どまり、と類推する。
人口七百万人のこの国で、内輪に見積もっても、
四分の一ぐらいの人が死んでしまった。
全国的規模で、
これらの虐殺は行われたのだ。
こんなことが信じられるだろうか。
アウシュビッツより酸鼻な話ではないか。
軍隊が殺し合うのはわかる。
しかし一般の農民、市民、女こどもまで、
抹殺してしまうという、その思想は、
どこから来ているのだろう。
どんな思想にせよ、
何百万の人間をたった四年で抹殺してしまって、
その上に成り立つ楽土などあるはずもないではないか。
私はまだ半信半疑だった。
(次回へ)